[クララ][2018.8.16.オミリア]

《年間第19木曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン(一兆円)借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオン(五十万円)の借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。(マタイ福音書18章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]聖母の被昇天ミサ説教(2018.8.15.)

《聖母の被昇天》小郡教会聖堂で8時30分から行われたミサの説教[9分]を聴くことができます。

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【福音】そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名(みな)は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏(おそ)れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。[ルカ福音書1章]

*本田哲郎訳 …そこで、マリアは言った。「わたしは心から主をあがめます。わたしを救ってくださる神に対して心の底から喜びでいっぱいです。神は、身分いやしいこの主のはしために、目をとめてくださったのです。今からのち、世のすべての人が神からの力がわたしにあると言うでしょう。力ある神は、大いなることをわたしになさいました。この神は聖なる方、人の痛みを知るその心は 代々、神をおそれ敬う人たちに向けられます。神はその腕の力を現わし、思い上がる人たちを打ち散らしました。すなわち、権力者をその座から引き下ろして 身分いやしい人たちを引き上げ、飢えた人たちを良いもので満たして金持ちたちを手ぶらで追い返したのです。神は、人の痛みを知るその心をあらたにし、『仕える者』イスラエルを、受け入れました。神がわたしたち先祖、アブラハムとその子孫に語られたとおりでした」。マリアは三カ月ほどエリサベトといっしょにいて、それから自分の家に帰って行った。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「夢を実現させる努力を」教皇、イタリアの青年たちに

2018年8月11日バチカン放送日本語課の記事より。

「夢を実現させる努力を」教皇、イタリアの青年たちに

教皇フランシスコは、ローマを巡礼したイタリアの若者、およそ7万人と、チルコ・マッシモでお会いになった。

2018年8月11日、ローマの古代競技場遺跡、チルコ・マッシモは、イタリア全土の教区から訪れた約7万人のカトリック青年たちの熱気であふれた。

青年たちのローマ巡礼は、今年10月3日から28日までバチカンで開催される「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマとしたシノドス(世界代表司教会議)に対する若者たち自身の関心を高め、同シノドスの実りを皆で祈るために、イタリア司教協議会によって企画されたもの。

司教や司祭らに率いられて各教区を出発した若者たちは、徒歩での巡礼や、ミサと祈り、カテケーシス、他教区の人々との交流などを経験しながら、12日のバチカンにおけるミサと、教皇との出会いを目指して進んだ。

11日、チルコ・マッシモで行われた前夜の祈りで、教皇フランシスコは広大な会場を特別車・パパモービルで一巡。出身地の旗を振り、歓声で応える若者たちに祝福を与えられた。

この集いでは、若者たちと教皇との質疑応答が行われた。

教皇は、未来への不安によって人生の重要な決定をためらう若者たちに、夢を持ち、それを実現させようと努力することの大切さを説かれた。

夢はわたしたちの眼差しを広げ、日常生活の一つひとつの行動に希望を与えるものであり、特に大きな夢は、自分を人と関わらせ、外に向かわせ、分かち合わせ、その希望の源に神を必要とするものと教皇は語られた。

そして、若者たちのすべきことは、勇気をもって、今日の夢を未来の現実に変えることと話された。

「この専攻では食べていけないから、別のものを選びなさい」「この計画は良いが、これと、これは、あきらめなさい」と人の意見を聞いているうちに、最後には何も残らなくなってしまう、と教皇は注意を促され、困難や抵抗を前にしても、勇気をもって、自分の夢がかき消されないように、あらゆる努力をすべきと励まされた。

かつてイタリアにも大きな夢を見る一人の青年がいたと、教皇は語り、その青年は父親の説得にも負けず、自分の夢を守るために司教館に駆け込み、その歩みを続けるために、服までも脱いで父親にすべて返した。この13世紀の一青年は、その名をフランチェスコといい、イタリアの歴史を変えることになったと、「アッシジの聖フランシスコ」の生涯を若者たちに思い出させた。

「悲観主義者で、何か良いことを成し遂げたという人をわたしは知らない」という聖ヨハネ23世の言葉を、教皇は若者たちに紹介。

「恐れが人を悲観的にしてしまう。リスクがあっても、夢を持ち、前進するように」と皆を勇気づけられた。

この土曜日、夜間も、チルコ・マッシモとバチカンの間にある多くの教会が開かれた。

教皇との前夜の集いを終えた若者たちは、翌日の聖ペトロ大聖堂巡礼とミサに備え、祈りや告解などを行った。

11 8月 2018, 17:33
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「悪を退け、善に忠実に」教皇、若者たちと日曜正午の祈り

2018年8月12日バチカン放送日本語課の記事より。

「悪を退け、善に忠実に」教皇、若者たちと日曜正午の祈り

教皇フランシスコは、8月12日、日曜正午の祈りを、巡礼のためローマを訪れたイタリアの若者たちと唱えられた。

この日、バチカンの聖ペトロ広場には、イタリア全土の教区からローマを目指して巡礼した若者たち、およそ7万人が詰めかけた。

これらの若者たちは、前日、8月11日、ローマ市内の古代競技場跡、チルコ・マッシモで、教皇フランシスコとの祈りの前夜祭に参加。そして、この朝、バチカンで、イタリア司教協議会議長、グアルティエロ・バッセッティ枢機卿司式のミサに与った。

教皇は、若者たちを前に行った正午の祈りの説教で、この日のミサの第2朗読「エフェソの信徒への手紙」(4,30-5,2)を取り上げながら、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(同4,30)という使徒聖パウロの招きを考察。

「神の聖霊を悲しませる」とはどういうことだろうかと問いかけられた。

わたしたちは皆、洗礼と堅信において聖霊を受け取ったが、聖霊を悲しませないためには、洗礼で約束し、堅信で新たにしたことを、言動一致で生きることが必要と教皇は指摘。

その約束とは、「悪を退け、善に忠実であること」と強調された。

教皇は、「悪を退ける」とは、誘惑や、罪、悪に「ノー」と言うことであり、より具体的に言えば、偽りや、ごまかし、不正義、他人に対する軽蔑など、現実から偽の幸せに逃避させる「死の文化」に「ノー」と言うことと話された。

そして、聖霊を源とし、洗礼を通してわたしたちに与えられた新しい命は、分裂や不和の感情に支配された振る舞いを拒否するがために、使徒聖パウロは、それぞれの心から、聖霊の喜びを乱す、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪と一緒に捨てなさい」(同4,31)と説いていると語られた。

しかし、同時に教皇は、悪を行わないというだけでは、キリスト者として十分でなく、「善に忠実に、善を行うこと」が必要と注意を促され、「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と言う聖パウロの善の勧めを示された。

「自分は誰にも悪いことをしていない」という人は、一方で善いことはしているのだろうか、と教皇は問いつつ、いったいどれだけの人が、悪いことはしないとしても、善いこともせず、無関心と無気力、なまぬるさの中に生きていることか、と話された。

「善は、悪をもたらさず、悪は、善をもたらさない」という、聖アルベルト・ウルタドの言葉を引用しながら、教皇は若者たちに「善の主役」となるように励ました。

「善の主役」となるためには、悪を行わないだけで満足してはいけないと教皇は述べ、憎まないだけでなく、赦すこと、恨まないだけでなく、その人のために祈ること、分裂の原因とならないだけでなく、平和のないところに平和をもたらすことが必要と教えられた。

教皇は、ローマ巡礼の若者たちに、愛のうちに歩み、次回の若者をテーマにしたシノドスを目指して一緒に進んでいきましょう、と呼びかけられた。

12 8月 2018, 17:00
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[クララ]イエスは神のいつくしみを現した[2018.8.14.オミリア]

《聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】そのとき、弟子たちがイエスのところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔(みかお)を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心(みこころ)ではない。」(マタイ福音書18章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[鳥栖]年間第19主日ミサ説教(2018.8.12.)

《年間第19主日》鳥栖教会聖堂で11時から行われたミサの説教[7分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。[エフェソの信徒への手紙4章]

【福音】[そのとき、]ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神のよって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」[ヨハネ福音書6章]

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第19主日ミサ説教(2018.8.12.)

《年間第19主日》小郡教会聖堂で8時30分から行われたミサの説教[8分]を聴くことができます。*今日は幼児洗礼式がありました。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。[エフェソの信徒への手紙4章]

【福音】[そのとき、]ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神のよって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」[ヨハネ福音書6章]

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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