作成者別アーカイブ: yamamotomakoto

[鳥栖]「年間第6主日」ミサ説教(2019.2.17.)

《年間第6主日》鳥栖教会聖堂で11時から行われたミサ(子どもとともにささげるミサ/テーマ:幸せの/説教[15分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは十二人]と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から[来ていた。]さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ福音書6章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

 

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[小郡]「年間第6主日」ミサ説教(2019.2.17.)

《年間第6主日》小郡教会聖堂で8時30分から行われたミサの説教[13分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは十二人]と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から[来ていた。]さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ福音書6章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

 

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[小郡]「年間第6主日前晩」ミサ説教(2019.2.16.)

《年間第6主日前晩》小郡教会聖堂で19時30分から行われたミサの説教[10分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは十二人]と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から[来ていた。]さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今、飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ福音書6章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

 

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2019.2.16.〜2019.3.3.)

★1月〜3月の主日のミサは小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時〜になります。

前晩(土曜日)主日のミサは毎週小郡教会で19時30分からです。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

 

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「出会いを恐れない」教皇、移民司牧の会議参加者に

2019年2月15日バチカン放送日本語課の記事より。

「出会いを恐れない」教皇、移民司牧の会議参加者に

教皇フランシスコは、ローマ郊外で、移民司牧をめぐる会議参加者とミサを捧げられた。

教皇フランシスコは、2月15日、ローマ郊外サクロファーノを訪問、同地で開催の移民司牧をテーマにした会議の参加者らとミサを捧げられた。

サクロファーノの黙想の家「フラテルナ・ドムス」で、ミグランティス基金、カリタス・イタリアなどの共催で、2月15日から17日まで、移民受け入れの現実をテーマにしたミーティング、「恐れから自由に」が行われている。

ミーティング初日、会場を訪れ、参加者らとお会いになった教皇は、黙想の家の礼拝堂でミサを司式された。

ミサの説教で教皇は、わたしたちが抱きやすい、未知の人、移民、外国人に対する恐れの感情を理解しつつも、心の準備ができていない、あるいは文化や経験の違う人たちを理解できないために起きるこの恐れを克服し、出会いに向けて自分自身を開く必要を訴えられた。

他の人々との出会いは、キリストとの出会いでもあると述べた教皇は、飢えている人、渇いている人、旅人、服のない人、病気の人、牢にいる人たちなど、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25,40)という、キリストご自身の言葉を思い起こされた。

たとえ、わたしたちの信仰が薄く、これらの人々にキリストを認めることができなくても、「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と言い、わたしたちを救うために手を伸ばしてくださるイエスに信頼し、救いと喜びをもたらす出会いに開いていくよう、関係者らを励まされた。

15 2月 2019, 18:35
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「貧困・飢餓問題への積極的な取り組みを」教皇、IFAD総会開会式に

2019年2月14日バチカン放送日本語課の記事より。

「貧困・飢餓問題への積極的な取り組みを」教皇、IFAD総会開会式に

教皇フランシスコは、ローマの国連食糧農業機関を訪問。国際農業開発基金の総会に出席された。

教皇フランシスコは、2月14日、ローマ市内の国連食糧農業機関(FAO)本部を訪問され、国際農業開発基金(IFAD)第42回総会の開会式に出席された。

教皇フランシスコがFAO本部を訪れるのは、2014年11月、2017年10月に続き、今回で3度目となる。

IFAD総会開会式で講演された教皇は、貧困と飢餓に苦しむ世界の兄弟姉妹たちのために、これらの問題への積極的な取り組みと責任を、国際社会に呼びかけられた。

教皇は、大気や水質の汚染、天然資源の搾取、水不足、医療システムの不備、ふさわしくない住環境など、世界各地で不安定な状況を生きる人々の叫びに耳を傾け、これらの人々の不安に関心を持つ必要を強調。

貧困と闘い、飢餓を現在と未来から消し去るためには、国際共同体と市民社会、資源を所有する人々の協力と、責任を回避し合うことのない、具体的で現実的な解決を求める姿勢が不可欠と述べた。

「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が掲げる17の目標の最初の2つ「貧困をなくそう」「飢餓をゼロに」を遂行する上で、苦しむ人々の必要に具体的に応えるIFADの事業が非常に重要な役割を果たしていることを教皇は評価された。

飢餓に脅かされている人々の大半が、世界の農村地帯に暮らし、食料生産に携わっていることに、教皇は矛盾を見出すと共に、農村から都会への人口流出という世界的傾向も無視できない問題として示された。

教皇は、地域の発展の中で、すべての人、すべての共同体が、それぞれの能力を余すところなく発揮し、人間の尊厳にふさわしい生活を送ることができるよう、また農村地域の人々が自分たちの生産と発展の責任ある主役となれるよう、そのための各国政府や組織の具体的な努力を願われた。

また、「科学を良心をもって用いる」ことの必要を説く教皇は、技術を貧しい人々への真の奉仕に用い、新しいテクノロジーを地域の文化や伝統と対立させることなく、統合的、相乗的な方法で役立てるようにと希望された。

14 2月 2019, 17:52
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[クララ]息 「エッファタ」[2019.2.15.オミリア]

《年間第5金曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

小郡教会聖堂二階ステンドグラス《ラウダート・シ》白丸は聖体、赤丸は禁断の木の実を表わしている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第一朗読】主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実(かじつ)を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆(おお)うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女[は]、主なる神の顔を避けて、園の木の間(このま)に隠れ[た]。(創世記第3章)

【福音】[そのとき、]イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾(つば)をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれば解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利(き)けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ福音書7章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「主の祈り:御父と『わたしたち』の対話」教皇一般謁見

2019年2月13日バチカン放送日本語課の記事より。

「主の祈り:御父と『わたしたち』の対話」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で「主の祈り」をめぐるカテケーシスを続けられた。

教皇フランシスコは、バチカンのパウロ6世ホールで2月13日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、「主の祈り」をテーマにカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた教皇は、この祈りで繰り返される「わたしたち」という言葉に注目。「わたしたち皆の御父」というテーマで講話された。

教皇は、イエスのように祈るためには、偽善的な祈りに陥らないようにと注意。

人に見られるために広場に立って祈ることをせず(参照:マタイ6,5)、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」、神に向かって「父よ」と呼びかけながら祈るようにと説く、イエスの教えを示された。

「イエスは偽善を望まれない。真の祈りとは、良心においてひそかになされるものであり、その心は外からはわからず、神だけがご存じである」

「祈りとは、自分と神の場であり、神は偽善を赦されず、裸の心をご覧になり、神を前に偽りや虚飾は役に立たない」

「神との対話の根底にあるものは、沈黙の対話である。愛する二人が交わす眼差しのように、神と人とが交わす眼差し、それが祈りである」

教皇は、祈りについてこのように語られた。

しかし、一方で、キリスト者の祈りは、神との親密さだけに閉じこもり、世界を扉の外に締め出すものであってはならないとも教皇は述べ、人々や、様々な状況、問題を祈りの中にもたらす必要を述べられた。

教皇は、「主の祈り」の中に、驚くべきことに全く見当たらない言葉、それは一人称単数の「わたし」という言葉である、と指摘。

「主の祈り」の前半で、イエスは「(あなたの)御名が聖とされますように」「(あなたの)御国が来ますように」「(あなたの)御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と、御父に呼びかける。

そして、祈りの後半には、「わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください」「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と、一人称複数の「わたしたち」が繰り返される。

こうしたことから、教皇は、「主の祈り」には「わたし」という言葉がなく、「あなた(御父)」と「わたしたち」の対話がそこにあると話された。

では、なぜ神との対話には、個人主義のためのスペースがないのか、と問われた教皇は、「自分の問題だけを世界で唯一の問題のようにひけらかす祈りはなく、神への祈りを自分たちの共同体のためだけの祈りとすることはできない。『わたしたち』は共に祈る民である」と説かれた。

教皇はここで、かつてご自分がある刑務所付司祭と交わした対話を回想。「『わたし』に対する反義語は何だと思いますか」というこの司祭の質問に、「それは『あなた』でしょう」と答えると、司祭から「それが戦争の始まりです。『わたし』の反義語は『わたしたち』です。平和のあるところでは、皆は共にあるのです」と教えられたことを、体験として紹介された。

キリスト者は、祈りの中で自分の周りに生きるすべての人々の困難を思い起こし、神の御前でその日に遭遇した人々の様々な苦しみを語るべき、と述べた教皇は、「もし多くの人の苦しみや貧しい人たちの涙に無関心でいるならば、その人の心は石である」「『同情を感じる』ということは、福音における一つのキーワード的な動詞である」と語られた。

教皇は、自分が祈る時、近くや遠くにいる人の叫びに心を開いているか、それとも祈りを自分を安心させるための一種の麻酔のように考えているのか、わたしたちはそれを自問する必要がある、と話された。

神を求めないように思われる人々に対しても、彼らのために祈るようイエスは招いている、と述べた教皇は、「御父はすべての人を愛される。自分の気に入った人にだけ良くしようとするわたしたちとは異なり、すべての人に対して善い方である神から、わたしたちは学ばなくてはならない」と説かれた。

13 2月 2019, 17:16
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[クララ]枠を越えて[2019.2.14.オミリア]

《年間第5木曜日:[記]聖チリロ 聖メトジオ》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

小郡教会聖堂二階ステンドグラス《ラウダート・シ》白丸は聖体、赤丸は禁断の木の実を現している

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第一朗読】主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣(けもの)、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記第2章)

【福音】[そのとき、]イエスはティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、この子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑(くず)はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床(とこ)の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マルコ福音書7章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「いつくしみを証しするため、人類の大海に漕ぎ出す」教皇、日曜正午の集い

2019年2月11日バチカン放送日本語課の記事より。

「いつくしみを証しするため、人類の大海に漕ぎ出す」教皇、日曜正午の集い

教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、ペトロの召し出しのエピソードを観想された。

教皇フランシスコは、バチカンで2月10日、日曜正午の祈りを唱えられた。

祈りに先立つ説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、ルカ福音書中のイエスが漁師シモン・ペトロを弟子にする場面(5,1-11)を取り上げられた。

このエピソードでは、イエスによる大漁の奇跡と、ペトロの召し出しが語られる。

ゲネサレト湖畔で、イエスは網を洗う漁師たちをご覧になった。イエスはシモンの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すように頼み、そして、舟から岸辺の群集に教えられた。話し終わったイエスは、「沖に漕ぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。漁師たちがそうすると、網が破れそうなほどの、おびただしい魚がかかった。

経験豊かな漁師シモン・ペトロは、前の晩に何もとれなかったものを、また漁をしたところで同じだろうと考えたが、イエスの存在とその言葉に動かされ、「お言葉ですから」と網を降ろす、イエスの招きに答えようとする姿勢を持っていた、と教皇は述べた。

そして、主はご自分のすべての弟子たちに、信仰への回答として、主の呼びかけに答えるこの姿勢を求められていると話された。

「ペトロのイエスへの信頼に満ちた従順は、網がやぶれそうなほどの魚をもたらしたが、この奇跡の大漁は、イエスの言葉の力を表すしるしであり、わたしたちが主のために寛大に奉仕する時、主はわたしたちの中で偉大なことを成し遂げられる。」

「主はわたしたちの人生の舟にご自分を迎え入れ、ご自分と共に新たな海に漕ぎ出すよう招かれ、そこで偉大な驚くべきことを見せてくださる。優しさといつくしみを証しするために、今日の人類の大海に出ることは、わたしたちの人生に新しい意味をもたらす。」

教皇はこのように語られた。

「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったペトロと同様に、わたしたちも、しばしば神の呼びかけを前に、自分の不適格さを理由にそれを断ろうとする傾向があると教皇は指摘。

しかし、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とイエスがペトロを励ましたように、わたしたちが主に信頼を寄せるならば、主はわたしたちを罪から解放し、ご自身の使命に協力するようにと、新しい世界を開いてくださる、と説かれた。

教皇は、イエスが行った奇跡の偉大さは、網を魚で満たしただけでなく、ペトロたちを失望や諦めの罠から助け出したことにあると強調。

イエスは福音と神の御国の証し人になるよう彼らの心を開かれ、それに対する彼らの答えは、「すべてを捨てて、イエスに従う」というものであったと、観想された。

神の御旨に寛大に従ったおとめマリアを模範として示された教皇は、わたしたちも神の御言葉と救いを告げ知らせるために、主の呼びかけに答えることができるよう、聖母の助けを祈られた。

11 2月 2019, 18:58
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