作成者別アーカイブ: yamamotomakoto

[クララ]聞いて行う[2018.12.6.オミリア]

《待降節第1木曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである。そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ福音書7章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇「地球上から戦争を取り除こう」

2018年12月3日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「地球上から戦争を取り除こう」

教皇フランシスコは、平和教育を目的とするイタリアの組織「ロンディネ」の関係者と会お会いになった。

教皇フランシスコは、バチカンで12月3日、平和教育を目的とするイタリアの組織「ロンディネ」の関係者と会お会いになった。

「ロンディネ協会・平和の町」は、今から20年前、イタリア中部アレッツォに誕生した組織で、世界の武力闘争を止め、紛争という状況を創造的に変えていくための働きを広めることを目的としている。

同協会は、一人ひとりが紛争中、あるいは紛争後の環境の中で、「敵対する」人々の中に人間を見出し、日常的な共存を通して、前向きに状況を変容させる力を養えるよう、特に紛争国の学生たちなどを対象に教育活動を行っている。

教皇はこの出会いで、今年創立20周年を迎えたロンディネ協会の関係者らに挨拶をおくられた。

アレッツォにゆかりの深い聖人たち、アッシジの聖フランシスコや、カマルドリ会創立者、聖ロムアルドの霊性を汲んだ同協会の、「敵対」という偽りの状況から若者たちを解放し、紛争を変化させ、人々に精神的・倫理的。文化的発展を取り戻させる活動に、教皇は感謝を述べられた。

教皇は貧困と戦争の関係に触れつつ、そのネガティブな連鎖が人の命を奪い、言葉に尽くしがたい苦しみを生み、憎悪を広げていく状況を注視された。

こうした中、若者たちの育成に尽くし、貧困の撲滅と、平和構築に貢献することは、人間の中に希望と信頼を生む行為であると話された。

「平和は一人ひとりの責任にかかっている」と述べた教皇は、「皆の努力で、地球上と、人類の歴史から、戦争を完全に取り除かなくてはならない」と呼びかけられた。

03 12月 2018, 17:13
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「主の祈り」をめぐる考察を開始、教皇一般謁見

2018年12月5日バチカン放送日本語課の記事より。

「主の祈り」をめぐる考察を開始、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「主の祈り」をめぐるカテケーシスを始めるに当たり、「祈りの人」としての、イエスの姿を見つめられた。

教皇フランシスコは、バチカンで12月5日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は新しいテーマとして、「主の祈り

をめぐる考察を開始された。

冒頭では、ルカによる福音書から、弟子たちがイエスに祈りを教えてほしいと頼む場面が以下のように朗読された。

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子のひとりがイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」(ルカ11, 1)

福音書は「祈りの人」としてのイエスの姿を生き生きと伝えている。

教皇は、イエスはその宣教の急務と、ご自分を必要とする人々の切迫にも関わらず、ひとり退き、祈る必要を感じていたと強調。

たとえば、マルコ福音書では、イエスの公生活の最初から、祈るイエスの姿が浮かび上がってくると述べた教皇は、カファルナウムでのイエスの行動を次のように振り返られた。

カファルナウムで、多くの病人を癒したイエスは、いわば凱旋的にその一日を終えようとしていた。

そこでは、イエスは人々の注目の的であり、人々の待ち望んでいた存在、イスラエルの希望の実りであった。

しかし、イエスはご自分を指導者と見なす人々の期待に縛られず、こうした圧力から、ご自分を解くすべを知っておられた。

実際、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1,35)。

弟子たちはイエスを捜すが、見つけることができなかった。シモンたちがイエスを見つけた時、イエスは完全に祈りに専心していた。

「みんなが探しています」という、シモンがイエスにかけた言葉は、イエスの宣教の成功を裏付けるものであった。

しかし、イエスは「近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」(マルコ1,38-39)と、他の場所に行こうとし、人々がイエスを捜すのではなく、まず先にイエスご自身が人々を捜すという態度を示された。

このように、カファルナウムでの出来事を振り返った教皇は、聖書はイエスの祈りと、御父との親しい交わりに満ちていると話された。

その例として、教皇はイエスのゲツセマネでの祈りを挙げ、そこで絶えず御父に耳を傾けようとするイエスの姿勢を指摘。

その祈りは、決して容易なものではなく、むしろ正真の死の苦悶であったにも関わらず、この時のイエスの祈りは十字架の道行きを支える力となった、と説かれた。

「イエスは祈っておられた」、これを本質的な点として示された教皇は、公生活の中で祈るイエス、また世の喧騒から離れて祈るイエスの姿を見つめるよう招かれた。

「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを拒まず、また、ご自身と御父との親密さを独り占めせず、イエスはわたしたちをまさに御父との絆に導かれようとした。こうして、イエスはご自分の弟子たちの、そして、わたしたちの「祈りの師」となられた、と教皇は話された。

「主の祈り」をめぐるこのカテケーシスの初めに、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを繰り返すことは、最も素晴らしく、ふさわしいこと、と説く教皇は、イエスはわたしたちのこの懇願を必ず聞き入れてくださるだろう、と話された。

05 12月 2018, 16:44
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教皇「待降節は平和を求める時」

2018年12月4日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「待降節は平和を求める時」

教皇フランシスコは、「待降節」に、平和を築く努力をするよう励まされた。

教皇フランシスコは、12月4日、バチカンのサンタ・マルタ館でミサを捧げられた。

説教で教皇は、主の降誕を準備する「待降節」は、自分自身の魂と、家庭、そして世界に平和を築くよう努力すべき時、と話された。

教皇はこの日第一朗読された、イザヤ書( 11,1-10)を観想。イザヤの言葉には、主が来られる時にもたらされる平和への約束がある、と話された。

そして、教皇はイザヤの「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」(同11,6)等の言葉に、イエスがもたらす、人生や歴史を変えるほどの力に満ちた平和を見出された。

この「平和の君」を待つにあたり、わたしたちはまず自分自身を清め、魂を穏やかにしなければならないと教皇は述べられた。

教皇は、次に家庭内を和解させる必要を説き、家族間の争いや、隔たり、不一致のあるところに平和の恵みを求めなければならないと語られた。

さらに、教皇は世界で戦争や憎悪、搾取のあるところに、平和を追求するよう招かれた。

世界の平和というと、自分のいるところから遠いイメージがあるが、世界平和を築くには、近所や、学校、職場など、身近な場所に平和をもたらすことから始めるべきと勧められた。

教皇は子供たちも平和構築に参加できるとし、たとえば学校に気に入らない同級生がいても、その人と仲直りすることで、平和の作り手となれると話された。

では具体的にどのように平和を築くか、それは神に倣うことが大切と教皇は指摘。

わたしたちとの和解を望まれ、わたしたちを赦される神、身を低くされ、謙遜に、皆のしもべとなられた神から、平和のもたらし方を学ぶべきと説かれた。

04 12月 2018, 13:44
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[クララ]パンを分ち合う[2018.12.5.オミリア]

《待降節第1水曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[その日、]万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。主の御手(みて)はこの山の上にとどまる。(イザヤ25章)

【答唱詩編】主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。

あなたははむかう者の前で、わたしのために会食を整え、わたしの頭に油を注ぎ、わたしの杯を満たされる。/神の恵みといつくしみに生涯伴われ、わたしはとこしえに神の家に生きる。(詩編123)

【福音】[そのとき、イエスは]ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。残ったパンの屑(くず)を集めると、七つの籠いっぱいになった。(マタイ福音書15章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]いつくしみを体現できるように[2018.12.4.オミリア]

《待降節第1火曜日》今日のオミリアの録音はありません。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

【第一朗読】[その日、]エッサイのひとつの芽が萌(も)えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭(むち)をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り 豹(ひょう)は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇(どくじゃ)の穴に戯(たわむ)れ 幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ11章)

【福音】そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心(みこころ)に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(ルカ福音書10章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]待降節第1主日ミサ説教(2018.12.2.)

《待降節第1主日:平和祈願ミサ》小郡教会聖堂で11時から行われたミサの説教[17分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥(おちい)る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。放縦(ほうじゅう)や深酒や生活の煩(わずら)いで、心が鈍(にぶ)くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠(わな)のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ福音書21章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]福音を生きる[2018.12.3.オミリア]聖フランシスコ・ザビエル

《日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。

聖フランシスコ・ザビエル:一五〇六年、スペインで生まれる。パリ大学で勉強したちきロヨラの聖イグナチオと出会い、最初のイエズス会員たちの一人となる。一五三七年にベネチアで司祭に叙階され、慈善行為に献身。一五四一年に東洋を目指して旅立ち、インド、日本などで十年間、福音宣教に専念し、多くの人をキリスト教信仰に導いた。一五五二年、中国の上川島で死去。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられてる務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。/わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。…弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(使徒パウロのコリントの教会への手紙1:9章)

本田哲郎訳:じっさい、わたしが福音を告げ知らせるとしても、それはわたしにとって誇らしいことではなく、そうせずにはいられないだけのことです。わたしにとって福音を告げ知らせないということは、嘆かわしいことなのです。わたしが進んでこうしているかぎり、わたしには見返りがあります。気が進まないところがあるとしたら、それは管理のつとめを委ねられてしまったことです。わたしにとって見返りとは何でしょうか。福音を告げ知らせるのに、手数料をとらずに福音を提供し、しかも、福音にまつわる特権をいっさい使わずに済んでいるという、このことです。わたしはだれからも束縛されない自由市民の身ですが、だれに対しても仕える側に身を置きました。…確信のもてない人に対しては確信のもてない者になりました。確信のもてない人を得るためです。わたしはだれに対しても、その人の側に身を置きました。どんなときでも、だれかを救いたいためです。福音を告げ知らせるためには、わたしはなんでもします。汚れまでも分け合う福音の中間に、わたしはなりたいからです。

【福音】イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。(マタイ福音書4章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇フランシスコ「自分の中に閉じこもっていてはならない」

2018年12月2日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇フランシスコ「自分の中に閉じこもっていてはならない」

教皇フランシスコはアンジェラスの祈りに際して、この日から始まる待降節の過ごし方について次のように話された。

「神の子キリストのこの地上での誕生を準備する待降節の間、利己主義的な生き方やただクリスマス・プレゼントに気を配るだけの世間的なお祭り騒ぎに陥ることを避けましょう。またさらに戦争の混乱の中で苦しむシリアの人々のことも忘れないようにいたしましょう。

待降節はキリストの降誕を記念し神の子を心から受け入れる準備の時期だけではなく、世の終わりに栄光の中に再臨されるキリストの到来にも心を向ける時でもあります。ですから待降節、各自自分の生き方を見直し、真のキリスト者らしく勇気をもって誠実にキリストとの出会いに準備するよう勧めます。

この待降節の4週間、わたしたちはただだらだらといい加減に生きるのではなく、しっかりと目覚めて、未来の新しい世界への夢と希望を大きく育てながら前進するよう招かれているのです。今日、待降節第一の主日のミサの福音もこのことを強調しています」。 

02 12月 2018, 18:01
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教皇、シリアと中東の平和のために祈りを呼びかける

2018年12月2日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、シリアと中東の平和のために祈りを呼びかける

教皇フランシスコは、シリアと中東の平和のために祈りを呼びかけられた。

教皇フランシスコは、12月2日、バチカンで行われた日曜正午の集いで、シリアと中東の子どもたちのために祈るよう招かれた。

降誕祭前の「待降節」に入ったこの日、教皇はこの期間を「希望の時」として示された。

教皇は、この待降節に、シリアの子どもたちの平和への希望を、ご自身のものとしたいと述べ、すでに8年続く長い戦争に苦しめられる同国に思いを寄せられた。

そして、教皇庁立基金「苦しむ教会への助け」の呼びかけに一致し、シリアの子どもたちや世界の信者たちと共に、ろうそくを灯し、平和のために祈りたいと話された。

教皇はバチカン宮殿の窓辺で大きなろうそくに火を灯され、この希望のともし火が、戦争の闇を追い散らし、キリスト者たちが、いつくしみと、赦し、和解の証し人として、シリアと中東にとどまることができるようにと祈られた。

また、教皇は、この希望のともし火が、現在世界の様々な場所で起きている紛争や緊張の犠牲となっている人々のもとに届くようにと願われた。

教皇は、教会の祈りが、これらの苦しむキリスト教徒たちに忠実な神の寄り添いを感じさせ、平和のための誠実な努力を助けることができるようにと話された。

02 12月 2018, 18:22
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