カテゴリー別アーカイブ: バチカン典礼

イエスのエルサレム入城に響く叫びを観想、教皇、受難の主日のミサで

2018年3月25日バチカン放送日本語課の記事より

イエスのエルサレム入城に響く叫びを観想、教皇、受難の主日のミサで

教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ広場で、「受難の主日」のミサを捧げられた。

3月25日、カトリック教会の典礼暦は「受難の主日」を迎えると共に、復活祭直前の一週間、キリストの受難を記念する「聖週間」に入った。

「聖週間」の第一日目「受難の主日」は、「枝の主日」とも呼ばれる。

この日は、イエスのエルサレムに入城した際に、大勢の群集が自分の服や、木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んでイエスを歓迎したという福音書の記述を思い起こし、ミサの前に、オリーブやシュロの枝を掲げて、宗教行列が行なわれる。

また、「受難の主日」には、教区レベルの「世界青年の日(ワールドユースデー)」が記念される。

第33回目となる今年の「世界青年の日」のテーマは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」 (ルカ 1,30)。

このミサには、ローマ教区と周辺教区の青少年、また、ローマで開催された若者をテーマとしたシノドス準備ミーティングや、大学生のフォーラムの参加者たちの姿が見られた。

ミサ開始前、教皇フランシスコは、聖ペトロ広場のオベリスクの前で、人々が手にする枝を祈りと聖水をもって祝別。

続いて、若者たちや、修道者、司祭、司教、枢機卿、そして教皇は、枝を掲げ、賛歌に声を合わせながら、大聖堂前の祭壇まで行列した。

教皇はミサの説教で、イエスのエルサレム入城に響く様々な叫びを観想。

エルサレムに入城したイエスを迎える民衆の歓喜と祝祭、主を賛美する叫びにわたしたちも招かれる一方で、主の十字架の道行と共に、その喜びは苦しみと苦さへと変えられていく。教皇は人々の叫びを通し、こうした主の受難の出来事に交差する喜びと苦悩を見つめられた。

教皇は、主の受難の物語は、多く愛することができる一方でまた憎悪することもでき、立派な犠牲ができる一方ですぐに自分は関係ないと背を向けることもできる、今日のわたしたちの感情や矛盾をも明るみに出すものと話された。

エルサレムでイエスは人々の歓呼に囲まれる。教皇は、それは自分たちの苦しみや惨めさの中でイエスの憐れみに触れ、イエスに従った人々の叫び、赦され、自信と希望を取り戻した罪びとたちの喜びの声であったと述べられた。

しかし、その一方で、人々の歓喜は、律法や宗教上の義務に「忠実」で自らを正しいと考えている人々には迷惑なもの、人々の苦しみや貧しさに対する感受性を失った人々にはいらだたしいものであった、と教皇は指摘。

自分の力を過信し、自らを他人より優れた者と思い込む者たちにとって、人々と喜びを分かち合うのは、いかに難しいことであったかと話された。

「十字架につけろ」というイエスに対する叫びは、こうして生まれたと述べた教皇は、それは自分の立場を守りたい者の声、驕りや傲慢による計略が作り出した叫びであったと語られた。

そして、最後には民衆の祝祭は止められ、希望や夢は壊され、喜びはかき消された。人々は心を閉じ、愛は冷えてしまったと話された。

こうしたすべての叫びを前に、わたしたちがとるべき態度、それは十字架上のキリストを見つめ、キリストの最後の叫びを聞いて、そこから自問することであると教皇は強調。

わたしたち一人ひとりへのご自分の愛を叫びながら亡くなられたイエスを思うよう招かれた。

教皇はこのミサに集った若者たちに、彼らの心にイエスが生む歓喜を消さないようにと願われた。

ここで教皇は、イエスのエルサレム入城の日に響いたもうひとつの声、神を賛美する弟子たちにいらだち、「先生、お弟子たちを叱ってください」(ルカ19,39)とイエスに言った人々の声と、それに対し「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」(同19,40)と答えたイエスの言葉を思い起こされた。

教皇は、いろいろな方法で若い人たちの声がかき消されても、また、たとえ世界が沈黙し、喜びが失われても、「石が叫び出す」前に叫ぶことができるか、それは皆さんの決断にかかっていると、若者たちを励まされた。

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教皇、メルキト・ギリシャ典礼の司教団と

2018年2月13日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、メルキト・ギリシャ典礼の司教団と

教皇フランシスコは、メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会の司教団に励ましをおくられた。

メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会の信者は、中東地域、特にシリアからレバノンにかけて多く、このほか世界の諸地域にディアスポラによる共同体がある。

同典礼の司教らは、レバノンで開催された総会の後、バチカンを訪れ、教皇との出会いやミサによってローマとの絆を新たにした。

2月12日、司教団はバチカン宮殿に教皇を訪問。

教皇は司教らへの言葉で、シリアと中東全土で人々に貴重な奉仕を続けるメルキト・ギリシャ典礼カトリック教会のために祈ると共に、よりよい生活を求めて世界各地に離散した信者らとその司牧者たちを思い起こされた。

教皇は、同教会の司教・司祭たちが自らの生き方を通して信仰を証しし、信者たちが教会の古い歴史が刻まれた土地に残ることができるよう、励まして欲しいと願われた。

2月23日に「平和のための特別な祈りと断食の日」が行なわれることに言及しながら、教皇はここ数年筆舌に尽くしがたい苦しみを体験したシリアのために祈ることを約束された。

この集いの翌日、13日朝、教皇はバチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂で、メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会のユーセフ・アブシ・アンティオキア総大司教とミサを共同司式された。

ユーセフ・アブシ総大司教(71)は、シリア・ダマスカスの出身。2017年6月、メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会のシノドスで、アンティオキアとエルサレム、東方全土における総大司教に選出された。

教皇はこのミサの意味について、一つの非常に古い教会の父としてローマを訪れたユーセフ総大司教が、ペトロ、すなわちローマ教皇を抱擁し、教皇との一致を表すためのものと説明された。

メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会の豊かな伝統、神学、典礼に触れると共に、中東で今、迫害に苦しんでいる同教会の信者たちに思いを寄せられた教皇は、このミサをこれらの兄弟たちのために捧げられた。

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教皇、南スーダンとコンゴ民主共和国の平和のために祈る

2017年11月23日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、南スーダンとコンゴ民主共和国の平和のために祈る

教皇フランシスコは、南スーダンとコンゴ民主共和国の平和を祈願された。

11月23日午後、教皇はバチカンの聖ペトロ大聖堂の司教座の祭壇で、南スーダンとコンゴ民主共和国の平和のための祈りをとり行われた。

スワヒリ語や英語の聖歌と、聖書朗読を交えながら行われたこの集いで、参加者らは、無関心と分裂を乗り越え、希望のために働く人、平和の真の証し人となれるよう、回心を祈り求めた。

そして、戦争の犠牲者である女性たち、暴力の無実の犠牲者たちのために祈りを捧げ、同時に、紛争の当事者、地域と国際社会の責任者、両国の平和構築に取り組む人たち、故郷を追われた避難民たちのためにも祈った。

参加者らは、南スーダンとコンゴ民主共和国の人々をキリストの傷ついた体として見つめながら、信仰のもとに希望と愛と平和が可能となり、神の似姿である人間の命が常に尊重、保護されることを願った。

集いの説教で、教皇は、南スーダンとコンゴ民主共和国、そして争いに傷ついたすべての地に、祈りを通して平和の種を蒔きたいと話された。

教皇は、南スーダンへの訪問を望んだが実現できなかったことを語りつつ、「祈りは神の力と共に働くもの、神にとって不可能はない」、「復活されたキリストゆえに、わたしたちは平和は可能であると信じている」と説かれた。

「イエス・キリストはわたしたちの平和」と述べた教皇は、「復活の主が兄弟たちを隔てる敵意の壁を壊してくださるように」、「主がわたしたち皆を、それぞれの置かれた場所において、平和を作り出す人としてくださるように」と祈った。

教皇は最後に、聖母像2体を祝別された。神の母マリアの助けのもと、兄弟愛と平和への相互努力が育まれることを願って、これらの聖母像は南スーダンとコンゴ民主共和国にもたらされる。

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日本・バチカン国交樹立75周年記念ミサ、聖ペトロ大聖堂で

2017年11月23日バチカン放送日本語課の記事より

日本・バチカン国交樹立75周年記念ミサ、聖ペトロ大聖堂で

日本とバチカンの国交樹立75周年を記念するミサが、11月22日、バチカンの聖ペトロ大聖堂でとり行われた。

1942年、日本とバチカンの間に完全な外交関係が結ばれてから、75周年を迎えた今年、茶道や、能、オペラ、シンポジウム、コンサートなど、一年を通して、ローマで様々な記念行事が行われた。

22日、バチカンでのミサは、大聖堂の「司教座の祭壇」において、聖ペトロ大聖堂主席司祭、バチカン市国における教皇代理、アンジェロ・コマストリ枢機卿によって捧げられ、ローマ在住の日本人司祭らがこれを共同司式した。

ミサには、中村芳夫在バチカン日本国特命全権大使をはじめ、ローマのカトリック日本人共同体、日本や世界各地からの巡礼者らが参列。

日本から参加した六本木男声合唱団のコーラスが、儀式をいっそう荘重なものとした。

コマストリ枢機卿は、ミサ中の説教で、医学者アルベルト・シヴァイツアーや、マザー・テレサの、深い信仰に培われた、労苦を厭わない愛徳の実践を思い起こしながら、すべてのキリスト者は愛の奉仕に招かれていると話した。

そして、コマストリ枢機卿はミサの中で、日本と日本国民の発展と貢献を参列者らと共に祈った。

ミサの前日、11月21日夜には、ローマ市内の聖イグナチオ・デ・ロヨラ教会で、日本・バチカン国交樹立75周年記念コンサートが開かれた。

コンサートでは、 三枝成彰氏の作曲「最後の手紙」が、六本木男声合唱団とオーケストラ・ディ・ローマによって演じられた。

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この一年に亡くなった枢機卿・司教らの追悼ミサ、バチカンで

2017年11月3日バチカン放送日本語課の記事より

この一年に亡くなった枢機卿・司教らの追悼ミサ、バチカンで

教皇フランシスコは、この一年に亡くなった枢機卿・司教らの追悼ミサをとり行われた。

カトリック教会の伝統で「死者の月」とされる11月、毎年バチカンで、1年の間に亡くなった枢機卿・司教らの冥福を祈るミサが、教皇によって司式される。

このミサは、16世紀からバチカン宮殿内の教皇の礼拝堂で行なわれてきたが、福者パウロ6世の時代にはシスティーナ礼拝堂で、聖ヨハネ・パウロ2世時代の1986年から、聖ペトロ大聖堂奥の「司教座の祭壇」で捧げられてきた。

11月3日に捧げられた今年のミサの中で、昨年秋から1年間に帰天した世界各国の14人の枢機卿と、137人の司教が追悼された。

ミサの説教で教皇は、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6,51)というイエスの言葉を引用。

「イエスは、御父から託された人々、また罪の隷属のうちに死んだ人たちを救うために、死を引き受けられ、わたしたちの兄弟として、死に至るまでわたしたちと同じ条件を分かち合われました」「イエスの愛は死のくびきを絶ち切り、わたしたちに命の扉を開きました」と話された。

「イエスの聖体に養われ、イエスの忠実な愛のもとに一致しましょう。イエスの忠実な愛は、悪や苦しみや死に対する、善の完全な勝利の希望をもたらしてくれます」と述べた教皇は、「キリストの神的な愛の絆の力において、わたしたちは死者たちとの交わりが単なる望みや想像ではなく、真に実現することを知っているのです」と語られた。

教皇は、亡くなった枢機卿と司教らを思い起こし、福音と教会へのその寛大な奉仕を感謝された。

「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5,5)。

使徒聖パウロのこの言葉を繰り返された教皇は、「神は忠実な方であり、神の中に置かれたわたしたちの希望は、決して無駄ではありません」と強調された。

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世界召命祈願日:教皇、バチカンで司祭叙階式

2017年5月8日バチカン放送日本語課の記事より。

世界召命祈願日:教皇、バチカンで司祭叙階式

教皇フランシスコは、バチカンで司祭の叙階式をとり行われた。

5月7日、典礼暦で復活節第四主日、「善き牧者の日曜日」といわれるこの日、カトリック教会の「世界召命祈願日」が記念された。

「世界召命祈願日」は、それぞれが自分に対する神の望みを祈りつつ探すことの大切さを認識し、特に司祭・修道者への神の招きに一人でも多くの人が応えることができるよう、教会全体が祈りを捧げることを目的としている。

この日には伝統的に教皇による司祭の叙階が行われる。

教皇は、聖ペトロ大聖堂で司式したミサの中で、ローマ教区の6人を含む、計10人に叙階の秘跡を授けられた。

ミサの説教で教皇は、新司祭たちに、常にいつくしみ深く、人々の心に届くようわかりやすく語りかけ、職業としての神父ではなく、神の民の司牧者であるようにと願われた。

特に、教皇は説教について、イエスが話されたように、その教えを人々の心に触れるようにシンプルに説くことで、み言葉は信者たちの真の栄養になるだろうと強調された。

また、自分が行なう一つひとつをよく認識し、ミサで主を記念することが、主の死と復活の神秘への参与となるように、洗礼の秘跡では新しい信者を神の民の一員として迎えるようにと話された。

教皇は赦しの秘跡について、常にいつくしみ深くあり、自分でさえも背負えないような重荷を、信者の肩に背負わせてはならないと説かれた。

さらに、病者を訪問することを忘れず、病者を通して苦しむキリストご自身に触れるようにと述べられた。

そして、教皇は、困難や無理解の中にあっても、喜びをもってキリストに奉仕し、常に目の前に、仕えられるためでなく、仕えるために来た「善き羊飼い」の姿を思い浮かべるようにと、新しい司祭らを励まされた。

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「復活した主の鼓動を、皆に伝えに行こう」教皇、復活徹夜祭で

2017年4月16日バチカン放送日本語課の記事より。

「復活した主の鼓動を、皆に伝えに行こう」教皇、復活徹夜祭で

カトリック教会の典礼暦は、4月16日(日)、「主の復活」の大祝日を迎えた。

教皇フランシスコは、聖土曜日4月15日の夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「復活の聖なる徹夜祭」をとり行われた。

復活徹夜祭は、キリストの復活を象徴する光の祭儀から始まり、み言葉の祭儀、洗礼式、感謝の典礼と続く、荘厳でキリスト教的シンボルにあふれた典礼である。

復活徹夜祭を特徴付ける「光の祭儀」では、大聖堂の入り口で教皇による復活の大ろうそくの祝別が行われた。

助祭が掲げる復活の大ろうそくを先頭に、明りを消した大聖堂の中を、教皇や聖職者、信徒らの代表が入場。

最初に「キリストの光」と歌われる中、大ろうそくから、まず教皇の持つろうそくに火がともされた。

2度目の「キリストの光」が朗唱されると、教皇のろうそくから、入祭行列者のろうそくへ、そして、すべての参列者のろうそくへと、次々に火が灯され、聖堂内は次第に光で満たされていった。

やがて3度目の「キリストの光」が歌われ、聖堂全体に明りが灯された。

続いて、助祭が復活賛歌を朗唱。参列者は、復活の主の世の闇に対する輝ける勝利の知らせに耳を傾けた。

また、復活徹夜祭のもう一つの伝統である洗礼式では、国籍も様々な11人の成人が教皇から洗礼を受けた。

教皇フランシスコは、この復活徹夜祭の説教で次のように話された。

********

「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(マタイ28,1)。
彼女たちの歩く様子が想像できるでしょう。墓場に向かう人たちが持つ歩み、頭が混乱し、疲れきった、すべてがこういう形で終わってしまったことに納得がいかない人の意気消沈した歩みです。彼女たちの青白く涙にぬれた顔が見えるようです。わたしたちはここで問うのです。愛が死ぬということが、一体ありうるのかと。

弟子たちと違い、彼女たちはそこにいました。師の十字架上での最後を見届け、イエスを埋葬するアリマタヤのヨセフに付き添ったように、二人の婦人は逃げずに持ちこたえ、ありのままの人生と向き合い、不当な出来事の苦い味に耐えることができました。そして今、彼女たちは墓の前に立ち、苦しみと、こんな風にすべてが終わってはいけないという、諦めきれない気持ちの板挟みになっていました。

もし、わたしたちが想像力を働かせるならば、彼女たちの顔に、多くの非人道的な不正の重みと苦しみに耐える、大勢の母や祖母の顔、子どもや若者の顔を見いだすことができるでしょう。彼女たちの顔に、街を歩きながら感じる、貧困の苦しみ、搾取され売買される人々の苦しみが映し出されているのを見るでしょう。また、そこに、移民として、祖国、家、家族を持たないゆえに侮蔑を受ける人々の顔を見、しわだらけの手を持ち、孤独で見捨てられた人々の眼差しと出会うでしょう。自分の子どもたちが腐敗の重みに押しつぶされ、権利を取り上げられ、多くの希望が粉々になるのを見て、また、生活の中のエゴイズムが多くの人の希望を十字架につけ葬り去り、麻痺した不毛な形式主義が物事の変化を許さないことを見て泣く母たちの顔を見るでしょう。二人の婦人の苦しみの中に、街を歩きながら、尊厳を十字架につけられた人たちの顔を見るのです。

この二人の女性の顔の中には、多くの人たちの顔があり、そこにはあなたの顔、わたしの顔もあるかもしれません。彼女たちのように、わたしたちもまた、物事がこのように終わっていいはずがないと、歩みを促される気がします。そうです、わたしたちは心に神の忠実さに対する期待と確信を持っています。一方で、わたしたちの顔は、傷や、不忠実、虚しい試みや、諦めを物語っています。物事はもっと違う形にすることができるはずだと知っていても、わたしたちの心は、大抵は無意識のうちに、墓場や欲求不満との共存に慣れてしまいます。さらにはこれが人生というものだと、自己を納得させるに至り、自分を麻痺させる様々な気晴らしを通して、神がわたしたちの手に握らせた希望をますます消耗させてしまうのです。多くの場合、わたしたちの歩みはこのようなものです。この二人の婦人のように、神に対する願望と悲しい諦めの間を歩いています。死ぬのは師だけではありません。師と一緒に、わたしたちの希望も死ぬのです。

「すると、大きな地震が起こった」(マタイ28,2)。突然、二人の婦人は強い揺れを、何かが、誰かが、彼女たちの足元を揺らすのを感じました。主の天使は婦人たちに「恐れることはない」と言い、さらに「あの方はかねて言われていたとおり、復活なさったのだ」 (マタイ28,6)と告げました。この知らせは、何世代にもわたって、聖なる夜がわたしたちに贈ってくれるものです。「兄弟たち、恐れることはない。あの方はかねて言われていたとおり、復活なさったのだ!」十字架上で引き裂かれ、壊され、殺されたあの命は、再び目覚め、鼓動し始めました( 参考:ロマーノ・グァルディーニ『イル・シニョーレ』ミラノ 1984, 501)。復活の主の鼓動は、わたしたちに恵み、贈り物、新しい水平線として差し出されました。復活の主の鼓動は、わたしたちに与えられると同時に、それを変化の力、新しい人類のパン種として、わたしたちもまた他人に与えるようにと招いています。

復活を通して、キリストは墓石をはねのけただけではありません。不毛な悲観主義や、生活とかけ離れた計算だけでできた抽象的世界、自分の安全の確保の飽くなき追求、他人の尊厳までをも犠牲にしかねない果てしない野望など、わたしたちを閉じ込めるすべての囲いをもはねのけたいと願っておられるのです。

ローマ人たちと共謀した大祭司や長老たちが、すべては計算可能だと、物事の決着をつけるのはいつも自分たちだと信じた時、神が介入し、すべての決まりをひっくり返し、新しい可能性を与えます。神は再び新しい時を制定し固めるために、わたしたちのもとに来られます。その新しい時とは、いつくしみの時です。これは忠実な民のために、神から常に約束されたもの、差し出される驚きです。喜びなさい、あなたの命には復活の芽が隠されています。それは目覚めを待つ命の贈り物です。

これが、この夜、わたしたちに告げるようにと召されたことです。復活の主の鼓動、キリストは生きておられる!これがマグダラのマリアともう一人のマリアの歩みを変えました。これが婦人たちを急いで墓から立ち去らせ、それを告げるために走らせたのです(参考:マタイ28,8)。これが婦人たちの歩みと眼差しを取り戻させ、彼女らは他の弟子たちに会うために町に戻りました。

わたしたちも彼女たちと一緒に墓に入り、彼女たちと一緒に町に帰り、自分たちの歩みと眼差しを取り戻すよう、皆さんに呼びかけたいと思います。彼女たちと一緒にこの知らせを告げに行きましょう。墓がすべての終わり、死だけが最後の答えと思われるすべての場所に行きましょう。告げ、分かち合い、真理を明らかにするために行きましょう。主は生きておられる!主は生きておられ、希望や夢や尊厳を葬った多くの人たちの顔を再び上げさせたいと望んでおられます。わたしたちが聖霊にこの道を導かれるのを拒むなら、わたしたちはキリスト者とは言えません。

行きましょう。このいつもと違う夜明けに目を見張り、キリストだけが与えることのできる新しいものに驚きましょう。キリストの優しさと愛に、わたしたちの歩みを励まされ、キリストの心臓の鼓動に、わたしたちの弱い鼓動を変えていただきましょう。

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聖金曜日:教皇と共にコロッセオで十字架の道行

2017年4月15日バチカン放送日本語課の記事より。

聖金曜日:教皇と共にコロッセオで十字架の道行

キリストの受難を記念する「聖金曜日」、4月15日の夜、教皇フランシスコと共に「十字架の道行」がローマ市内のコロッセオでとり行われた。

十字架の道行は、キリストの受難を黙想しながら行う信心業で、イエスが死刑の宣告を受けてから、十字架上で死に、墓に葬られるまでの14の場面を、それぞれ観想しつつ祈る。

この夜、古代ローマ時代の円形闘技場、コロッセオの内部は、十字架の道行をたどる人々の松明で照らされた。

対面のパラティーノ遺跡には、火を灯した十字架が浮かび上がり、教皇はその下でイエスの受難の歩みを黙想し続けた。

参加者らの黙想を助けるためのテキストは、今年はフランスの神学者アンヌ・マリ・ペルティエ氏によって準備された。

この黙想の中では、ゴルゴタに向かうイエスの歩みが人類に対する神の愛の頂点として示され、受難のイエスに、戦争に苦しむ人々、暴力の犠牲となった子どもや女性たちの姿が重ねられた。

教皇は十字架の道行終了後の説教で、「わたしたちの唯一の救い主、キリストよ、今年もわたしたちは恥ずかしさに目を伏せながらも、希望でいっぱいの心と共に、あなたのもとに戻ってきました」と呼びかけ、戦争による破壊や、難民船の遭難の映像がもはや当たり前となった、今日の世界を振り返られた。

そして、子どもや女性、移民たち、民族・宗教等を理由に迫害される人など、無実の人々が流す血を、また、わたしたちの罪と無責任さ、不正義を前にした沈黙などを、恥ずべきこととして列挙された。

この中で教皇は、「司教・司祭・修道者らがキリストの体である教会にもたらした、つまずきと傷」についても言及された。

教皇は、「キリストの教会が人類の荒れ野に叫ぶ声となり、生者と死者を裁くために来られる、主の勝利の再臨への道を整えることができますように」、「見た目の敗北にも関わらず、善が勝利しますように」と、希望をもって祈られた。

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聖金曜日:バチカンで主の受難の儀式、イエスの死を思い、十字架を崇敬

2017年4月15日バチカン放送日本語課の記事より。

聖金曜日:バチカンで主の受難の儀式、イエスの死を思い、十字架を崇敬

4月15日、キリストの十字架上での死を記念する「聖金曜日」、教皇フランシスコは「主の受難の儀式」をとり行われた。

同日夕方、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた「主の受難の儀式」で、冒頭、教皇は祭壇前の床に伏し祈り、会衆もひざまずいて沈黙のうちに祈った。

み言葉の祭儀では、ヨハネ福音書から、イエスの受難の場面(18,1-19,42)が朗読された。

裏切りを受け逮捕され、縛られて連行されるイエス、イエスの弟子だったことを人々の前で重ねて否定するペトロ、ピラトから尋問され、「わたしの国はこの世には属していない」「わたしは真理に付いて証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」というイエスと、「真理とは何か」と問うピラト、「見よ、この男だ」と引き出されたイエスに「十字架につけろ」と叫ぶ人々、死刑の判決を受け、自ら十字架を背負いゴルゴタへ向かい、十字架につけられるイエス、十字架の上から、母マリアと弟子ヨハネにそれぞれの存在を託し、やがて「成し遂げられた」と言い息を引き取るイエスの最期を、参列者らは観想した。

教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ神父の説教に続いて、聖金曜日の祈りと、十字架の崇敬が行なわれた。

十字架を掲げた助祭は、祭壇に向かって歩みつつ、3度立ち止まり、そのたびに十字架を会衆に高く顕示した。

十字架を迎えた教皇は、十字架上のイエスに接吻され、この後枢機卿や司教、そして司祭、修道者、信徒の代表が十字架を崇敬した。

最後に、教皇は再び会衆を前に十字架を示しつつ、沈黙の祈りを捧げられた。

聖体拝領の後、会衆は静かに解散した。

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