カテゴリー別アーカイブ: オミリアと説教

[鳥栖]年間第20主日[2019.8.18.]

《年間第20主日》鳥栖教会で11時から行われた典礼における説教を聴くことができます。

説教中に、2019.8.9.長崎平和祈念式典「平和への誓い」山脇佳朗(やまわき よしろう)6min.を観て平和について考えました。

[鳥栖:前半3分]ここをクリックして聴くことができます。

[鳥栖:後半4分]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既(すで)に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂(ぶんれつ)だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカによる福音12章)

*本田哲郎訳:「わたしは、地上に火を放つために、来た。わたしの気がかりは、もう燃えついただろうか、ということだ。わたしには、受けねばならない『沈めの式』がある。そのことがなしとげられるまで、どれほど気がせかれることか。わたしが、地上に平和を与えるためにここにいると、あなたたちは期待しているのか。そうではない。言っておくが、むしろ、分裂だ。今からは、一つの家に五人いたら、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれるのだ。『父親は息子と、息子は父親と、母親は娘と、娘は母親と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる』(ミカ7・6)」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第20主日[2019.8.18.]

《年間第20主日》小郡教会で8時30分から行われた典礼における説教[5分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既(すで)に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂(ぶんれつ)だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカによる福音12章)

*本田哲郎訳:「わたしは、地上に火を放つために、来た。わたしの気がかりは、もう燃えついただろうか、ということだ。わたしには、受けねばならない『沈めの式』がある。そのことがなしとげられるまで、どれほど気がせかれることか。わたしが、地上に平和を与えるためにここにいると、あなたたちは期待しているのか。そうではない。言っておくが、むしろ、分裂だ。今からは、一つの家に五人いたら、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれるのだ。『父親は息子と、息子は父親と、母親は娘と、娘は母親と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる』(ミカ7・6)」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]違いを認める[2019.8.16.オミリア]

《年間第19金曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁(りえん)することは、律法に適(かな)っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固(がんこ)なので、モーセは妻を離縁することを許(ゆる)したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通(かんつう)の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄(あいだがら)がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ福音書19章)

*本田哲郎訳:ファリサイ派の人たちが近づいて来て、イエスを試(こころ)みようとして、「いかなる理由でも、人は妻を離縁することがみとめられるのでしょうか」と言った。それについてイエスはこう言った。「あなたたちは知らないのか。造り主は、初めから『人を男と女につくられた』。そして、こう言われたのである。『それゆえ、人は、父と母をあとにのこして、妻とむすばれ、二人は一体となる』(創世記2・24)。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。神が一つのくびきにむすび合わせたものを、人が引きはなしてはならないのだ」。すると、ファリサイ派の人たちは言った。「それなら、なぜモーセは『離婚証明をわたして、妻を去らせよ』と命じたのですか」。イエスは言った。「あなたたちの頑固(がんこ)さのために、モーセは妻を離縁することをゆるしたのだ。はじめからそうだったわけではない。言っておくが、妻を、ふしだらということでもないのに離縁して、ほかの女性をめとる者は、不倫を行っているのだ」。弟子たちは、「もし、妻に対する夫の立場がそういうものなら、妻を迎えるのが、かならずしもいいというわけではないのだ」と言った。イエスは弟子たちに言った。「みながみな、この聖書のことばどおりに結婚できるわけではなく、その資質(ししつ)を与えられた人たちだけである。母親の胎にあるときから結婚できないように生まれついた者もあれば、人の手で結婚できないようにされた者もあり、また、天の国のために自分から結婚しない者もいるのだ。この聖書のことばを受け入れることのできる人は受け入れなさい」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[鳥栖]聖母の被昇天[2019.8.15.]

《聖母の被昇天》鳥栖教会で11時から行われた典礼における説教[14分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】そのころ、マリアは出かけて、急いで山里(やまざと)に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶(あいさつ)した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂(たましい)は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留(と)めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名(みな)は尊(とうと)く、その憐(あわ)れみは代々(よよ)に限りなく、主を畏(おそ)れる者に及(およ)びます。主はその腕で力を振(ふ)るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、自分の低い者を高く上げ、飢(う)えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在(たいざい)してから、自分の家に帰った。(ルカによる福音1章)

*本田哲郎訳:数日後、マリアは心を決め、急いで山路(やまじ)をたどり、ユダの町に向かった。そして、ザカリヤの家に入ると、エリサベトにあいさつのことばをかけた。エリサベトがマリアのあいさつのことばを耳にするや、その腹の子がおどった。そして、エリサベトは聖霊にみたされて、声高く叫んで言った。「おまえは、女たちのだれよりも祝福されています。おまえのおなかの子も祝福されています。どうしたことでしょう、主の母が、わたしのところへ来てくださるとは。おまえのあいさつの声がわたしの耳にとどいたとき、わたしのおなかの子が喜んでおどりました。神から告げられたことを、そのとおりになると信頼して受けとめた人は、神からの力があるのです」。そこで、マリアは言った。「わたしは心から主をあがめます。わたしを救ってくださる神に対して心の底から喜びでいっぱいです。神は、身分いやしいこの主のはしために、目をとめてくださったのです。今からのち、世のすべての人が神からの力がわたしにあると言うでしょう。力ある神は、大いなることをわたしになさいました。この神は聖なる方、人の痛みを知るその心は代々(だいだい)、神をおそれ敬う人たちに向けられます。神はその腕の力を現わし、思い上がる人たちを打ち散らしました。すなわち、権力者をその座から引き下ろして身分いやしい人たちを引き上げ、飢(う)えた人たちを良いもので満たして金持ちたちを手ぶらで追い返したのです。神は、人の痛みを知るその心をあらたにし、『仕える者』イスラエルを、受け入れました。神がわたしたちの先祖、アブラハムとその子孫に語られたとおりでした」。マリアは三カ月ほどエリサベトといっしょにいて、それから自分の家に帰って行った。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]赦しても赦さなくてもいいのでない[2019.8.14.オミリア]

《年間第19水曜日:聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

*聖マキシミリアノ・マリア・コルベ:一八九四年にポーランドに生まれる。若くしてコンベンツアル聖フランシスコ修道会に入り、一九一八年にローマで司祭に叙階された。神の母マリアに対する子としての愛に燃え、「無原罪のマリアの騎士会」と呼ばれる信心会を作り、ポーランドをはじめ他の国々にも広めた。宣教師として日本を訪れ、無原罪のマリアの保護のもとに、キリスト教信仰を宣べ伝えることに努めた。その後ポーランドに戻り、クラクフ地方のオシエンチム(アウシュビッツ)の強制収容所に入れられて多くの艱難を耐え忍んだ。第二次世界大戦のさなかに、死刑を言い渡された同僚の身代わりとなることを願い出て、一九四一年八月十四日、愛の殉教者として、休むことを知らない生涯を全うした。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】信じる者の力である神よ、あなたは聖マキシミリアノ・マリア・コルベの心を汚れないおとめマリアへの愛で燃え立たせ、宣教の熱意と隣人愛で満たしてくださいました。聖人の殉教を記念し、その取り次ぎを願うわたしたちが神の国のために自分を捨てて人々に仕え、死に至るまで御子イエスに従うことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ福音書18章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]低みからみる[2019.8.13.オミリア]

《年間第19火曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉(えら)いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔(みかお)を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜(さが)しにいかないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅(ほろ)びることは、あなたがたの天の父の御心(みこころ)ではない。」(マタイ福音書18章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[鳥栖]年間第19主日[2019.8.11.]

《年間第19主日》鳥栖教会で11時から行われた典礼における説教を聴くことができます。

《日本カトリック平和旬間》8月6日〜15日

2019年8月11日主日ミサ説教動画[鳥栖]

平和への誓い 子ども代表 広島平和記念式典 2019年8月6日[4:44]

[鳥栖:前半2分ここをクリックして聴くことができます。

[鳥栖:後半6分ここをクリックして聴くことができます。

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[小郡]年間第19主日[2019.8.11.]

《年間第19主日》小郡教会で8時30分から行われた典礼における説教[8分]を聴くことができます。

《日本カトリック平和旬間》8月6日〜15日

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

平和への誓い 子ども代表 広島平和記念式典 2019年8月6日[4:44]

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[クララ]キリストのように生きた二人[2019.8.10.オミリア]

《聖クララの祭日前晩》聖クララ会修道院聖堂で19時から行われたミサのオミリア[15分]を聴くことができます。

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第二朗読】「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられるず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現われるために。…だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(2コリント4章)

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ふどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(ヨハネ福音書15章)

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[鳥栖]永遠の命は今から始まっている[2019.8.10.オミリア]

《死者のためのミサ》鳥栖教会納骨堂で8時から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映(うつ)り、この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅(はめつ)に見えた。ところが彼らは平和のうちにいる。人間の目には懲(こ)らしめを受けたように見えても、不滅への大いなる希望が彼らにはある。わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。主に依(よ)り頼む人は真理を悟(さと)り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。主に清められた人々には恵みと憐(あわ)れみがあり、主に選ばれた人は主の訪(おとず)れを受けるからである。(知恵の書第3章)

【福音】[そのとき、イエスは人々に言われた。]「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降(くだ)って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣(つか)わしになった方の御心(みこころ)を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ福音書6章)

*本田哲郎訳:そのとき、イエスは弟子たちに言った。「わたしのあとからついて来たいと思う人は、自分のことはかえりみず、自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。自分自身を救おうとばかり思う人は、自分をほろぼし、わたしのために自分自身を使いほろぼす人は、自分を得る。人は、たとえ世界ぜんぶを味方にひき入れても、自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか。人には、自分自身に代わる値打ちのものが、何かあるのか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて神の使いたちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じてむくいるのである。はっきり言っておく。ここにいる人たちの中に、人の子が自分の国に来るのを見るまで、死を味わおうとしない人たちがいる」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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