カテゴリー別アーカイブ: [鳥栖]主任司祭から

教皇、「祈りは生活そのものから始まり、絶望から救ってくれる」。

2018年12月12日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、「祈りは生活そのものから始まり、絶望から救ってくれる」。

水曜恒例教皇一般謁見で、教皇フランシスコは先週から始まった「主の祈り」の解説を続けられ、祈りの本質、それは天におられる父なる神へのゆるぎない信頼であると話された。

「キリストご自身がその弟子たちに教えた「主の祈り」は短いながらも大変大胆な祈りと言えます。

あらゆる思惑や恐れの壁を取り除き、素直な心で担当直入に祈りそのものの神髄へと導いてくれます。

「主の祈り」は、余計な前置きを差し置いて、天の御父に対する子としての信頼をもってまっすぐに人間の具体的な現実に迫っていきます。

そのもっともよい例は「わたしたちに毎日のパンを」与えてくれるよう願うことばです。

これは、生きていく人間にとって率直な本質的な願いです。

それは信仰というものは実生活からかけ離れたものではないことを示しています。

祈りは具体的な生活そのものから始まるのです。

過去にある人が言ったことがあります。

物事を願う懇願の祈りは信仰がまだ弱いことを表す祈りです。

真の祈りとは何の願い事もない純粋に神を賛美する礼拝の祈りなのだと。

そうでしょうか。事実はそうではないと思います。

懇願の祈り、そこにある信仰は本物です。

それは人間が持つごく当然の心情です。

全能であり、かつ最高に善良である父である神に対する信仰の表れ、信頼の行為です。

自分は小さく、罪人で、助けを必要とする者であるとの自覚をも表す行為です。

ですから、神に向ける懇願の祈りは大変すばらしい祈りなのです。

それはその祈り自体が、神はわたしたちに対して限りない同情とあわれみを持つ父であり、わたしたちがその愛する子として、何の恐れもなしに心から、直接に「わたしたちのお父さんと」呼びかけ、困難にあうときにも、何とかしてください、と願うことのできる父であることを示しているからです」。

12 12月 2018, 18:21
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2018年12月9日、日曜正午アンジェラスの祈り、教皇「神の愛を信じる者は希望を指し示す」。

2018年12月10日バチカン放送日本語課の記事より。

2018年12月9日、日曜正午アンジェラスの祈り、教皇「神の愛を信じる者は希望を指し示す」。

恒例日曜正午のアンジェラスの祈りに際して、教皇フランシスコは, 神を信じる者たちのこの世界において果たすべき重要な役割について話された。

聖母マリアへのアンジェラスの祈りを教皇と共に唱えようと聖ペトロ広場に集った世界各国からの信徒たちに、教皇フランシスコこの世の論理、メンタリティーに従うのではなく、かえって生活の中心にイエス・キリストの光に満ちたその言葉と愛と慰めに置くよう勧告された。

教皇フランシスコは、キリストの降誕祭を準備する期間である待降節の第二の主日にあたるこの日曜日のミサの福音朗読から、洗礼者聖ヨハネの使命を想起しつつ、聖ヨハネが人々に呼びかけた「改心の必要性」について強調され次のように話された。

「親愛なる兄弟の皆さん、

洗礼者聖ヨハネは救い主を迎えるためにその道を平らにし、整え準備するよう人々を招きました。

主を迎えるための道を平らにし整えるとはどういうことでしょうか。

それは私たちの心から冷酷さや利己主義、無関心を取り除き、イエスご自身が持たれた心をもって人々に自分自身を開いていくことです。

そのためには自分自身を謙虚に保ち、具体的に兄弟たちと和解し、自分自身の罪の許しを心から願うことが必要です。

和解を実現するのはそんなに簡単なことではありません。

神の愛を信じる者であるということ、それは洗礼者聖ヨハネのように兄弟たちに心を開くためにいつも彼らの近くにとどまるということでもあります。

この世のみじめな現状に遭遇しても、現実を拒否して逃避したり、自分自身の狭い世界に閉じこもるのではなく、決してあきらめることをせずに、世のメンタリティーに流されることなく各自の生活の中心に イエスご自身とその光のみ言葉、愛、なぐさめを置くようにすることが肝要です。

今日も、イエスの真の弟子たちは、イエスご自身の謙虚なまた同時に勇敢な証人として、何があっても神のみ国は毎日、聖霊の力によって建設され続けているという希望の灯をともし続けるよう招かれています。

ですからこの世界をよりよく変えていくために私たちも何ができるか考えてみたいと思います」。

10 12月 2018, 18:55
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無原罪の聖母の大祝日、教皇「聖母マリア、困難にある人々といつも共にいてください」。

2018年12月9日バチカン放送日本語課の記事より。

無原罪の聖母の大祝日、教皇「聖母マリア、困難にある人々といつも共にいてください」。

12月8日、無原罪の聖母の大祝日、教皇は毎年恒例のローマ、スペイン広場での聖母像への献花式にに臨まれた。

教皇フランシスコはスペイン広場に向かう前に、ローマ・テルミニ駅近くの「雪の聖母大聖堂」を訪問した。

ローマ市民から「サールス・ポポリ・ロマーニ」すなわち「ローマ人たちの救い」という称号の下に、絶大な崇敬を集めている聖母像の前でローマ市とローマ市民のために祈り、母としての保護と恵みを聖母に懇願した。

教皇はその際、ローマ市民一人ひとりが、あきらめることなくローマ市をより良い町とするための努力を続けるよう強調された。

その後、例年通りローマの中心部にあるスペイン広場の聖母像を訪れ、高い柱の上に安置されている無原罪の聖母像に花輪を捧げられた。

教皇フランシスコはスペイン広場をくまなく埋め尽くした信徒たちと共にしばらく沈黙の中に祈られ、その後、参列者およびすべての人々に励ましの言葉を贈られた。

その中で教皇は、特に病人たちや毎日の生活の中で多くの問題や困難を抱えて苦しんでいる人々に、忍耐をもって前進する努力を続けるよう、また決してあきらめることなく希望をもって、各自できることから生活改善への働きをするよう励まされた。

またナザレトのイエス・マリア・ヨセフの聖家族の例を挙げながら、日常生活の困難や苦しみを実際に体験された聖母マリアが、同じ状況にある多くの人々といつも共にいてくださるよう、熱烈な祈りを捧げた。

09 12月 2018, 17:04
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教皇「地球上から戦争を取り除こう」

2018年12月3日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「地球上から戦争を取り除こう」

教皇フランシスコは、平和教育を目的とするイタリアの組織「ロンディネ」の関係者と会お会いになった。

教皇フランシスコは、バチカンで12月3日、平和教育を目的とするイタリアの組織「ロンディネ」の関係者と会お会いになった。

「ロンディネ協会・平和の町」は、今から20年前、イタリア中部アレッツォに誕生した組織で、世界の武力闘争を止め、紛争という状況を創造的に変えていくための働きを広めることを目的としている。

同協会は、一人ひとりが紛争中、あるいは紛争後の環境の中で、「敵対する」人々の中に人間を見出し、日常的な共存を通して、前向きに状況を変容させる力を養えるよう、特に紛争国の学生たちなどを対象に教育活動を行っている。

教皇はこの出会いで、今年創立20周年を迎えたロンディネ協会の関係者らに挨拶をおくられた。

アレッツォにゆかりの深い聖人たち、アッシジの聖フランシスコや、カマルドリ会創立者、聖ロムアルドの霊性を汲んだ同協会の、「敵対」という偽りの状況から若者たちを解放し、紛争を変化させ、人々に精神的・倫理的。文化的発展を取り戻させる活動に、教皇は感謝を述べられた。

教皇は貧困と戦争の関係に触れつつ、そのネガティブな連鎖が人の命を奪い、言葉に尽くしがたい苦しみを生み、憎悪を広げていく状況を注視された。

こうした中、若者たちの育成に尽くし、貧困の撲滅と、平和構築に貢献することは、人間の中に希望と信頼を生む行為であると話された。

「平和は一人ひとりの責任にかかっている」と述べた教皇は、「皆の努力で、地球上と、人類の歴史から、戦争を完全に取り除かなくてはならない」と呼びかけられた。

03 12月 2018, 17:13
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「主の祈り」をめぐる考察を開始、教皇一般謁見

2018年12月5日バチカン放送日本語課の記事より。

「主の祈り」をめぐる考察を開始、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「主の祈り」をめぐるカテケーシスを始めるに当たり、「祈りの人」としての、イエスの姿を見つめられた。

教皇フランシスコは、バチカンで12月5日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は新しいテーマとして、「主の祈り

をめぐる考察を開始された。

冒頭では、ルカによる福音書から、弟子たちがイエスに祈りを教えてほしいと頼む場面が以下のように朗読された。

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子のひとりがイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」(ルカ11, 1)

福音書は「祈りの人」としてのイエスの姿を生き生きと伝えている。

教皇は、イエスはその宣教の急務と、ご自分を必要とする人々の切迫にも関わらず、ひとり退き、祈る必要を感じていたと強調。

たとえば、マルコ福音書では、イエスの公生活の最初から、祈るイエスの姿が浮かび上がってくると述べた教皇は、カファルナウムでのイエスの行動を次のように振り返られた。

カファルナウムで、多くの病人を癒したイエスは、いわば凱旋的にその一日を終えようとしていた。

そこでは、イエスは人々の注目の的であり、人々の待ち望んでいた存在、イスラエルの希望の実りであった。

しかし、イエスはご自分を指導者と見なす人々の期待に縛られず、こうした圧力から、ご自分を解くすべを知っておられた。

実際、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1,35)。

弟子たちはイエスを捜すが、見つけることができなかった。シモンたちがイエスを見つけた時、イエスは完全に祈りに専心していた。

「みんなが探しています」という、シモンがイエスにかけた言葉は、イエスの宣教の成功を裏付けるものであった。

しかし、イエスは「近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」(マルコ1,38-39)と、他の場所に行こうとし、人々がイエスを捜すのではなく、まず先にイエスご自身が人々を捜すという態度を示された。

このように、カファルナウムでの出来事を振り返った教皇は、聖書はイエスの祈りと、御父との親しい交わりに満ちていると話された。

その例として、教皇はイエスのゲツセマネでの祈りを挙げ、そこで絶えず御父に耳を傾けようとするイエスの姿勢を指摘。

その祈りは、決して容易なものではなく、むしろ正真の死の苦悶であったにも関わらず、この時のイエスの祈りは十字架の道行きを支える力となった、と説かれた。

「イエスは祈っておられた」、これを本質的な点として示された教皇は、公生活の中で祈るイエス、また世の喧騒から離れて祈るイエスの姿を見つめるよう招かれた。

「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを拒まず、また、ご自身と御父との親密さを独り占めせず、イエスはわたしたちをまさに御父との絆に導かれようとした。こうして、イエスはご自分の弟子たちの、そして、わたしたちの「祈りの師」となられた、と教皇は話された。

「主の祈り」をめぐるこのカテケーシスの初めに、「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを繰り返すことは、最も素晴らしく、ふさわしいこと、と説く教皇は、イエスはわたしたちのこの懇願を必ず聞き入れてくださるだろう、と話された。

05 12月 2018, 16:44
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教皇「待降節は平和を求める時」

2018年12月4日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「待降節は平和を求める時」

教皇フランシスコは、「待降節」に、平和を築く努力をするよう励まされた。

教皇フランシスコは、12月4日、バチカンのサンタ・マルタ館でミサを捧げられた。

説教で教皇は、主の降誕を準備する「待降節」は、自分自身の魂と、家庭、そして世界に平和を築くよう努力すべき時、と話された。

教皇はこの日第一朗読された、イザヤ書( 11,1-10)を観想。イザヤの言葉には、主が来られる時にもたらされる平和への約束がある、と話された。

そして、教皇はイザヤの「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」(同11,6)等の言葉に、イエスがもたらす、人生や歴史を変えるほどの力に満ちた平和を見出された。

この「平和の君」を待つにあたり、わたしたちはまず自分自身を清め、魂を穏やかにしなければならないと教皇は述べられた。

教皇は、次に家庭内を和解させる必要を説き、家族間の争いや、隔たり、不一致のあるところに平和の恵みを求めなければならないと語られた。

さらに、教皇は世界で戦争や憎悪、搾取のあるところに、平和を追求するよう招かれた。

世界の平和というと、自分のいるところから遠いイメージがあるが、世界平和を築くには、近所や、学校、職場など、身近な場所に平和をもたらすことから始めるべきと勧められた。

教皇は子供たちも平和構築に参加できるとし、たとえば学校に気に入らない同級生がいても、その人と仲直りすることで、平和の作り手となれると話された。

では具体的にどのように平和を築くか、それは神に倣うことが大切と教皇は指摘。

わたしたちとの和解を望まれ、わたしたちを赦される神、身を低くされ、謙遜に、皆のしもべとなられた神から、平和のもたらし方を学ぶべきと説かれた。

04 12月 2018, 13:44
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教皇フランシスコ「自分の中に閉じこもっていてはならない」

2018年12月2日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇フランシスコ「自分の中に閉じこもっていてはならない」

教皇フランシスコはアンジェラスの祈りに際して、この日から始まる待降節の過ごし方について次のように話された。

「神の子キリストのこの地上での誕生を準備する待降節の間、利己主義的な生き方やただクリスマス・プレゼントに気を配るだけの世間的なお祭り騒ぎに陥ることを避けましょう。またさらに戦争の混乱の中で苦しむシリアの人々のことも忘れないようにいたしましょう。

待降節はキリストの降誕を記念し神の子を心から受け入れる準備の時期だけではなく、世の終わりに栄光の中に再臨されるキリストの到来にも心を向ける時でもあります。ですから待降節、各自自分の生き方を見直し、真のキリスト者らしく勇気をもって誠実にキリストとの出会いに準備するよう勧めます。

この待降節の4週間、わたしたちはただだらだらといい加減に生きるのではなく、しっかりと目覚めて、未来の新しい世界への夢と希望を大きく育てながら前進するよう招かれているのです。今日、待降節第一の主日のミサの福音もこのことを強調しています」。 

02 12月 2018, 18:01
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教皇、シリアと中東の平和のために祈りを呼びかける

2018年12月2日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、シリアと中東の平和のために祈りを呼びかける

教皇フランシスコは、シリアと中東の平和のために祈りを呼びかけられた。

教皇フランシスコは、12月2日、バチカンで行われた日曜正午の集いで、シリアと中東の子どもたちのために祈るよう招かれた。

降誕祭前の「待降節」に入ったこの日、教皇はこの期間を「希望の時」として示された。

教皇は、この待降節に、シリアの子どもたちの平和への希望を、ご自身のものとしたいと述べ、すでに8年続く長い戦争に苦しめられる同国に思いを寄せられた。

そして、教皇庁立基金「苦しむ教会への助け」の呼びかけに一致し、シリアの子どもたちや世界の信者たちと共に、ろうそくを灯し、平和のために祈りたいと話された。

教皇はバチカン宮殿の窓辺で大きなろうそくに火を灯され、この希望のともし火が、戦争の闇を追い散らし、キリスト者たちが、いつくしみと、赦し、和解の証し人として、シリアと中東にとどまることができるようにと祈られた。

また、教皇は、この希望のともし火が、現在世界の様々な場所で起きている紛争や緊張の犠牲となっている人々のもとに届くようにと願われた。

教皇は、教会の祈りが、これらの苦しむキリスト教徒たちに忠実な神の寄り添いを感じさせ、平和のための誠実な努力を助けることができるようにと話された。

02 12月 2018, 18:22
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教皇フランシスコ「待降節はわたしたちの人生のもっとも大切なこと、兄弟たちの中にキリストを見出すことを教えてくれる」

2018年12月1日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇フランシスコ「待降節はわたしたちの人生のもっとも大切なこと、兄弟たちの中にキリストを見出すことを教えてくれる」

12月2日日曜日、待降節第一主日をもってキリストの降誕祭を準備する待降節が始まる。教皇は待降節の意味を解説。

教皇フランシスコは待降節は、人類に出会いに自らこの地上に降りてこられる神の子を迎えるための準備の時として与えられる貴重な時間であること、わたしたちの兄弟たちの中に現存するキリストの存在を認め愛し学ぶためためであることを繰り返し強調。

神の子、キリストは、クリスマスの祝日に私たちのもとに来られる。

貧しさの中に、謙虚な条件の中に誕生された神の子の歴史上の到来を記念するたびに、心から迎えようとする人々の中に神の子は再び来られる。

そして世の終わりには生者と死者を裁くために再び来られる。だからわたしたちはいつも希望を持って主の来臨に備えていなければならない。

教皇フランシスコは2016年11月27日、日曜正午のアンジェラスの祈りに際して、キリストの三様の来臨について話されている。

第一の来臨は受肉の神秘を通して、すなわちベトレヘムの馬小屋での誕生。

第二の来臨は現に毎日絶え間なく実現していることで、いつもわたしたちの傍らに現存し、愛と慰めを持ってともに歩み続けてくれている。

そして第三、最後の来臨は世の終わりに際しての最後の審判の際での出会いである。

教皇はマタイの福音書第25章「わたしが飢えていたとき食べさせてくれた、わたしが渇いていたとき飲ませてくれた、わたしが旅人だっとき宿らせてくれた、わたしが裸だったとき着せてくれた、わたしが病気だったとき、牢獄に入れられていたとき見舞ってくれた。

まことにわたしは言う。あなたたちが私の兄弟たちであるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまりわたしにしてくれたことであると」を引用しながらわたしたちは皆、最後には兄弟をどのように愛したかによって裁かれるだろうと想起している。

教皇は待降節の間、各自のキリストとの出会いが、どのようなものであるかを深く反省するよう促している。

01 12月 2018, 17:09
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「神がわたしたちの心に蒔く、新しい、聖なる願望」教皇一般謁見

2018年11月28日バチカン放送日本語課の記事より。

「神がわたしたちの心に蒔く、新しい、聖なる願望」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、モーセの「十戒」の考察のまとめを行われた。

教皇フランシスコは、バチカンで11月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この日、教皇は、モーセの「十戒」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を締めくくられた。

まとめにあたり、教皇は、キリストにおける啓示の光のもとに、「十戒」のテキストを人間の「願望」というテーマを鍵に再読しつつ、これまでの考察を振り返られた。

教皇は、わたしたちに何かを求める前に、初めにご自分から非常に多くを与えてくださる神への感謝、信頼と従順の関係の基礎にあるその感謝から、「十戒」の考察は始まる、と述べられた。

神は、わたしたちに力を及ぼす偶像崇拝の欺瞞から、わたしたちを解放するために、ご自分への従順を呼びかけられる、と教皇は話された。

実際、この世の偶像の中に人生の実現を追い求めることが、わたしたちを虚しくさせ、隷属させるのに対し、神との関係は、キリストにおいて、わたしたちを神の子としてくれる、と説かれた。

「神によって解放された人は、人生の様々な出来事を受け入れ、自分自身と和解することができる。こうして、わたしたちは、イエス・キリストによって表された神の愛から出立して、隣人との関係に入ることができる。それは忠実、寛大、正真に生きることの素晴らしさへの招きである」と教皇は語られた。

ただし、このように生きるためには「新しい心」が必要である。その「新しい心」はどのように植え付けることができるのだろうか。

教皇はこの問いに対し、神によってわたしたちの心に蒔かれた「新しい願望」の芽生えによってそれが可能となると話された。

教皇は、「十戒」はイエスによって完成させられるものと強調。

十戒」に表される人生、すなわち、感謝に満ちた、自由で、偽りのない、祝福され、成熟し、命を愛する、忠実で、寛大な人生を観想するうちに、わたしたちは気づかぬ間に、キリストの御前に立っている、と指摘された。

そして、「『十戒』とは、いわばキリストのX線写真であり、聖骸布のようにキリストの御顔を映し出すもの」、「キリストを見つめることで、わたしたちは真・善・美を見ることになる」と話された。

キリストは律法を廃するためでなく、完成するために来られたという意味がここにあると述べた教皇は、肉による律法が一連の規定や禁止であるのに対し、霊による掟は命となる、と語られた。

なぜなら、それはすでに掟ではなく、わたしたちを愛し、探し、赦し、慰めるキリストご自身の肉であり、キリストの体において、罪によって失われた御父との交わりが再び取り戻されるからである、と説明された。

こうして「十戒」の「殺してはならない」「盗んではならない」といった、「…してはならない」という否定は、「愛する」「隣人のために心を割く」といったポジティブな態度、前向きな願望へと変容することになる、と教皇は話された。

「キリストにおいてのみ、『十戒』は罪への定め(参照:ローマ8,1)となることをやめ、人間の命の正真の真理、すなわち、愛すること、喜び、平和、高潔、寛容、優しさ、誠実、温和、自制への願望となる」

「よこしまな欲望が人を破壊するのに対し、聖霊はわたしたちの心に聖なる願望を置き、それは新しい命の芽となる」

教皇はこのように説かれた。

キリスト者にとっての「十戒」とは何か。それは、わたしたちの心を開き、キリストの心、御旨、聖霊を受けるために、キリストを観想することであると、教皇は話された。

28 11月 2018, 17:12
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