カテゴリー別アーカイブ: [鳥栖]主任司祭から

「イエスの癒しと救いを引き出す信仰」教皇、日曜正午の集い

2018年7月1日バチカン放送日本語課の記事より。

「イエスの癒しと救いを引き出す信仰」教皇、日曜正午の集い

教皇フランシスコは、バチカンで7月1日(日)、正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

集いの中で教皇は、この日の福音朗読箇所、マルコ福音書の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」(5,21-43)のエピソードを取り上げながら、説教を行われた。

教皇は、イエスによる、命をめぐる2つの奇跡が描かれるこの箇所を、まるで「命へと向かう勝利の行進」のよう、と表現された。

ここでは最初に、会堂長の一人であるヤイロという人が、イエスのもとに来て、自分の幼い娘が死にかけている、どうか家に来て癒して欲しいと、しきりと願う。

イエスはヤイロと共に出ていくが、そこに少女はもう亡くなったという知らせが届く。しかし、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5,21)と会堂長に言われた。

ヤイロの家で、イエスは泣きわめく人々を外に出し、両親と3人の弟子だけを伴い、子供のところへ行った。イエスが子供に「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(同5, 41)と言われると、少女は深い眠りから覚めたように、すぐに起き上がった。(参照:同5, 42)

この奇跡を語る中で、福音記者マルコは、もう一つの奇跡として、群衆の中でイエスの服に触れることで(参照:同5, 27)、長年の出血から癒された女の話を挿入している。

教皇は、この箇所で心を打つのは、キリストの持つ神的な救いの力を引き出した女の信仰であると語られた。

女が癒しを願ってイエスの服に触れると、イエスはご自分の内から力が出て行ったことに気づき、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。女が震えながら進み出て、すべてを話すと、イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(同5, 34)と言われた。

2つの奇跡によって構成されるこのエピソードで、中心となるものは「信仰」であると教皇は強調。

ここでイエスは、命の泉、ご自分に完全に信頼する者に命を再び与える方としての姿を現されている、と話された。

教皇は、これらの奇跡において、少女の父親も、長年の患いに苦しむ女も、イエスの弟子ではなかったが、その信仰ゆえにイエスに願いを聞き入れてもらえたことに注目。

こうしたことからわかるように、主の道にはすべての人が招かれており、イエスの御心に触れるために必要なことは、ただ自分の癒しの必要を感じ、イエスに信頼することである、と説かれた。

イエスはこのような人々を群衆の中から見つけ出し、その人の存在を認め、生きることの恐れから解放してくださる。わたしたちも、生きる力を失いかけた人々に、イエスの解放の言葉と、癒しの眼差しを与えることを学ばなければならない、と教皇は話された。

「信仰」と「新しい命」というテーマが絡まり合うこのエピソードを観想された教皇は、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」(同5, 39)というイエスの言葉にあるように、主の前では、「肉体の死」は眠りのようなものであり、これに絶望することはない、むしろ恐れるべきは、悪によってかたくなにされた「心の死」である、と指摘された。

罪でさえも、イエスにとっては、そこですべてが終わったというわけではないと教皇は述べ、イエスはわたしたちに御父の無限のいつくしみをもたらし、どん底に落ちた者にも「わたしはあなたに言う。起きなさい」という、強く優しい御声を響かせてくれるのである、と語られた。

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聖ペトロ・聖パウロ祭日:教皇、東京教区・菊地大司教ら、首都大司教のパリウム祝別

2018年6月29日バチカン放送日本語課の記事より。

聖ペトロ・聖パウロ祭日:教皇、東京教区・菊地大司教ら、首都大司教のパリウム祝別

カトリック教会の典礼暦は、6月29日、使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日を迎えた。

同日午前、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ広場で、ローマの保護者である両聖人を祝うミサを捧げられた。

教皇ミサは、菊地功・東京大司教ら、最近任命された首都大司教たち、また大阪大司教・前田万葉枢機卿ら、前日28日の公開枢機卿会議(コンチストーロ)で叙任されたばかりの新枢機卿たちをはじめ、世界各地の多くの枢機卿・司教による共同司式でとり行われた。

儀式には、正教会のエキュメニカル総主教庁から使節が参列。バチカンと同総主教庁間では、聖ペトロ・聖パウロの祭日と聖アンデレの祭日に、毎年使節が交換されている。

また、日本の巡礼団も参加し、共同祈願では、日本語による祈りも唱えられた。

この日のミサの伝統として、教皇は式中、首都大司教らに授与する「パリウム」を祝別された。

「パリウム」は、白く細長い帯状の肩掛けで、キリストの傷跡を象徴して、6箇所に黒い絹糸で十字架が刺繍されている。毎年聖アグネスの日(1月21日)に教皇に祝別された子羊の毛を用い、作られる。カズラ(祭服の一種)の上から肩に掛けるパリウムは、羊を肩の上に背負う「善き羊飼い」の姿を象徴している。

パリウムを祝別された教皇は、ミサの終わりにそれを首都大司教一人ひとりに手渡された。

首都大司教らはパリウムを各教区に持ち帰り、後日、その国に駐在する教皇大使の手を通して、信者たちの前で肩にかける式を行う。

ミサの説教で、この日の福音朗読を取り上げた教皇は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16,15)というイエスの問いに、シモン・ペトロが「あなたはメシアです」(参照:同16,16)と答える場面を観想された。

「あなたはメシアです」というペトロの答えは、その時、彼に考えつく限りの最も偉大な呼び名をイエスに与えるものであった、と教皇は振り返られた。

さらに、興味深いことに、ペトロがこのように信仰を表した後に、イエスがご自分の死と復活を予告し、弟子たちに説明し始めていることを教皇は指摘された。

しかし、ペトロは、イエスのこの思いがけない予告に対し、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(同16,22)といさめ始めた。すると、イエスはペトロに「サタン、引き下がれ」と言われた。

教皇は、信仰を表したばかりのペトロが、すぐにメシアの道を邪魔する「つまずきの石」となり、知らぬ間にイエスの敵になってしまったことに注目。

ペトロの生涯と信仰告白を観想することは、使徒の人生につきまとう誘惑について学ぶことでもあると話された。

そして、ペトロのように、教会もまた、宣教のつまずきとなる悪のささやきに、常にさらされていると語られた。

教皇は、メシアであるキリストの業に参与することは、キリストの栄光、すなわち十字架に参与することであると強調。

イエス・キリストにおいて、栄光と十字架は常に共にあり、それらは切り離すことができないと説かれた。

キリスト者でありながらも、主の傷と適度な距離を保とうとする誘惑に注意を促される教皇は、人間の苦しみに触れるイエスは、わたしたちにご自身と共に隣人の苦しみに触れるようにと招いておられる、と呼びかけられた。

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前田万葉枢機卿はじめ、新枢機卿の叙任式、バチカンで

2018年6月28日バチカン放送日本語課の記事より。

前田万葉枢機卿はじめ、新枢機卿の叙任式、バチカンで

教皇フランシスコは、バチカンで、新枢機卿の叙任式をとり行われた。

6月28日午後、教皇は聖ペトロ大聖堂で公開枢機卿会議(コンチストーロ)を開催。この中で大阪教区大司教・前田万葉枢機卿を含む、14人の新しい枢機卿を叙任する儀式を行われた。

教皇は、これに先立つ5月20日、日曜正午の祈りの集いの席で、教皇選挙(コンクラーベ)の投票権を持つ80歳未満の枢機卿11人と、選挙権を持たない80歳以上の枢機卿3人の、名前を発表されていた。

この日、大聖堂内には、教皇と新枢機卿らを囲んで、教皇庁や世界各国の枢機卿たちが集まった。

式の初めに、ルイス・ラファエル・サコ、カルデア典礼バビロニア総大司教が、新枢機卿を代表し、教皇に感謝の言葉を述べた。

マルコ福音書(10,32‐45)が朗読された後、教皇は説教を行われた。

「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」(マルコ10,32)。

教皇は、マルコ福音書のこの言葉から、唯一無比の教えをもってご自分の民を顧み、先頭に立って皆を導く主の姿を観想。

一方で、エルサレムに近づきつつ、イエスがご自分の死と復活について三度目の予告をする、緊張に満ちた状況にもかかわらず、自分の地位をイエスに願い出たり、そのことで腹を立てる弟子たちの争いをも、教皇は見つめられた。

イエスはこのような弟子たちに対し、支配者たちは民を支配し権力をふるっているが、「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(参照:マルコ10,43)と言われた。

教皇は、「あなたがたの間では、そうではない」というイエスの言葉を掲げつつ、共同体の中での無用な議論や自己優先的態度をとることなく、むしろ人々に奉仕する者となるように招く、主の教えを示された。

そして、主のこの言葉は、共同体が自分自身だけを見つめることから抜け出し、眼差しを本当に大切なもの、すなわちミッションへと向けるように助けるものであると話された。

真に信頼に値する権威は、キリストに奉仕するために人々の足元に身をかがめることから生まれると述べた教皇は、神の忠実な民の中で、飢えた人、忘れられた人、受刑者、病者、麻薬中毒患者など、希望や失望、苦しみや傷を抱えた具体的な人々の中で、キリストに仕えるよう、新枢機卿らを励まされた。

説教に続き、教皇は、枢機卿叙任のためのラテン語の式文を述べ、新枢機卿らの名前を読み上げられた。

新枢機卿らは信仰宣言を唱え、教皇への忠実と従順を宣誓した。

この後、帽子と指輪の授与が行われた。

教皇は、枢機卿のシンボルである緋色の帽子「ベレッタ」と、指輪、任命書を一人一人に手渡し、温かい抱擁を与えられた。

またこの際、教皇は、それぞれの枢機卿に象徴的に託される、ローマの名義教会名を告げられた。

前田万葉枢機卿には、モンティ地区の聖プデンツィアーナ教会のタイトルが与えられた。

この後、新枢機卿らは、枢機卿団に迎えられ、そのメンバーらとも平和の抱擁を交換した。

叙任式を終えた新枢機卿らは、同日夕方、バチカンのパウロ6世ホールなどを会場に、お祝いに駆け付けた関係者や信者たちの訪問を受ける。

翌6月29日、ローマの保護者、使徒聖ペトロと聖パウロの祭日、教皇は新枢機卿、また最近任命された首都大司教らと共に、バチカンの聖ペトロ広場でミサを捧げられる。

**********

この日、教皇フランシスコにより叙任された新しい枢機卿は以下のとおり。

(儀式における発表順・敬称略、括弧内は出身国・年齢・所属修道会等)

・ルイス・ラファエル・サコ、カルデア典礼バビロニア総大司教(イラク、69)

・ルイス・ラダリア、教理省長官(スペイン、74、イエズス会)

・アンジェロ・デ・ドナーティス、ローマ教区教皇代理(イタリア、64)

・ジョヴァンニ・アンジェロ・ベッチウ、国務省総務局長官代理、駐マルタ騎士団特別使節(イタリア、70)

・コンラート・クライェウスキ、教皇慈善活動室責任者(ポーランド、54)

・ジョセフ・コーツ、カラチ大司教(インド、72)

・アントニオ・ドス・サントス・マルト、レイリア=ファティマ司教(ポルトガル、71)

・ペドロ・バレート、ワンカヨ大司教(ペルー、74、イエズス会)

・デシレ・ツァラハザナ、トゥアマシナ大司教(マダガスカル、64)

・ジュゼッペ・ペトロッキ、ラクィラ大司教(イタリア、69)

・トマス・アクィナス・前田万葉、大阪大司教(日本、69)

・セルジョ・オベソ・リヴェラ、ハラパ名誉大司教(メキシコ、86)

・トリビオ・ティコナ・ポルコ、コロコロ司教(ボリビア、81)

・アクィリーノ・ボコス・メリノ、クラレチアン宣教会・司祭(スペイン、80)

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「キリスト教生活は、寛大な御父への感謝の答え」教皇一般謁見

2018年6月27日バチカン放送日本語課の記事より。

「キリスト教生活は、寛大な御父への感謝の答え」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで6月27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「十戒」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)で、「十戒」の冒頭の部分を考察された。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20,2)。

「十戒」はこのような神の言葉で始まる。

教皇は、神がまずご自身について宣言し、その救いの業を明らかにしてから、「十戒」の具体的な内容を示していることに注目。

これは、神が最初に救いの業を行うことで、民の信頼を求められるためであり、いわば、「十戒」は神がその寛大さを示すことから始まると述べられた。

「わたしは主、あなたの神」という宣言について教皇は、神はよそよそしい他人のような存在ではなく、まさに「あなたの神」であり、その愛は「十戒」全体を照らすものと語った。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15,9)とイエスの言葉にあるように、キリストは御父から愛され、その同じ愛をもってわたしたちを愛される。キリストはご自分からではなく、御父から出発されていると教皇は述べられた。

わたしたちの行いがしばしば失敗するのは、その行いが自分自身から出て、感謝から出ていないからであると教皇は述べ、「自分から出発する人は、自分自身にしかたどり着けない」と話された。

キリスト教的生活は、何よりも、寛大な御父に対する感謝の答えであり、あれをしなくては、これをしなくてはと、義務だけにとらわれているキリスト者は、その義務の基礎にある、神なる御父の愛の体験が欠けていることを表している、と注意された。

「関係の始めから、ただ掟だけを押し付けることは、信仰の歩みの助けにはならない。救いではなく、義務や課題から出発するならば、どうして若い人はキリスト教徒になることを望むだろうか」と教皇は問われた。

「キリスト者として成長するには、意志の力だけでは足りない。救いを受け入れ、神に愛される体験が必要」と強調された。

神に従うには、神がわたしたちのためにしてくださったことを思い出すことが大切と教皇は述べ、自分に対する神の素晴らしい業と救いについて、各自が思いを巡らせるよう勧められた。

義務感だけに縛られ、神の解放の真の体験を知らない人々に対し、教皇は、イスラエルの人々のうめきと叫びを聞いた神が、人々を顧み、御心に留められた(参照:出エジプト2,23-25)ように、自分から神に救いを求める叫びを上げるようにと説かれた。

「神はわたしたちの鎖を断ち切るために、助けを求める叫びを待っておられる。神は、わたしたちが虐げられることなく、自由と感謝のうちに生きるようにと、わたしたちを召された」と、教皇は神がわたしたちに与える限りない恵みを示された。

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教皇、マクロン仏大統領と会見

2018年6月26日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、マクロン仏大統領と会見

教皇フランシスコは、フランスのマクロン大統領とお会いになった。

6月26日午前、バチカンを訪問したエマニュエル・マクロン仏大統領を、教皇は温かく歓迎された。

教皇と大統領の会談では、教皇庁とフランス間の友好関係が強調され、特にカトリック教会の活動、フランスにおける共通善の推進のための諸宗教の貢献がテーマとなった。

また、国際問題では、環境保護、移民政策の他、紛争の回避と解決、武装解除のための多国間レベルの努力などが共通の関心となった。

さらに、中東やアフリカ地域での紛争の状況について、意見が交換された。

最後に、ヨーロッパの将来をめぐり共に考察がなされた。

教皇は、会談の後、大統領夫人や随行団に挨拶された。

同日午後、マクロン大統領はローマ市内のラテランの聖ヨハネ大聖堂で、ローマ司教座聖堂名誉参事会員の称号の授与式に出席する。

フランスの元首がラテランの聖ヨハネ大聖堂の名誉参事会員の称号を受ける伝統は、1604年、アンリ4世の時代にさかのぼり、今日、その慣わしは、歴代のフランス共和国大統領へと受け継がれている。

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対話:中国における教会の宣教に必要な選択

2018年6月26日バチカン放送日本語課の記事より。

対話:中国における教会の宣教に必要な選択

教会の宣教は常に変わらないといえる。しかし、今日の中国の状況を背景に宣教を考える時、当局との建設的対話の強い必要が浮かび上がってくる。
 

〈特集:中国におけるカトリック教会〉セルジョ・チェントファンティ、ベルント・ハーゲンコルト神父(イエズス会)編
 

司祭、信徒、修道者、誰であっても、キリストの弟子たちは皆、どこでも、いつの時代にも、人々の間にあって、光・塩・パン種となる使命を持っている。それは彼らの善き業を見た人々が皆、天の御父に栄光を帰するためである。中国の教会において、それは異なると言えるのだろうか?

実際、最近中国が、特に欧米社会との、冷静な比較を試みる代わりに、ある種の閉鎖的態度をとっていると指摘する人々がいる。一方で、教皇庁は、非難や、より率直な批判の態度をとるかわりに、どうして対話や協定を信頼し続けることができるのかと問う声もある。

教皇庁が持つ、国際社会に対する、特に紛争や危機をめぐる多くの介入経験から推論できるように、対話を求めるのは、隔たりと無理解がより拡大することの危険を自覚しているからであり、そこで対話はチャンスとなるだけでなく、不可欠な選択となるからである。何よりも、教会は自らの信者たちに、とりわけ彼らが大きな苦しみに接している場合に、特別に寄り添う責任を負っていることを忘れてはならない。実際、他の機関にとっては、「同意」、あるいは「譲歩」のしるしとさえ受け取られかねないことが、教会にとっては、道徳的義務であり、福音の要求に応える、霊的な強さのしるしなのである。

中国においてこのミッションを遂行するには、教会は政界に対し特権を願う必要はない。教会はただ、正当な方法で、ありのままの自分でいなければならない。実際、必要な自由さえ欠如したような、特殊で究極の状態においても、教会はその福音宣教を前進させる方法を追求することができる。

さらに、いかなる時代、世界のいかなる場所においても、教会にとって困難と十字架を伴わなかったことはない。むしろ、気づくべきことは、たとえ今日でも、宣教に理想的な条件は、民主主義的により発展した国々においてさえも存在しないように見えるということである。

一方で、教会は、信仰や、愛、内部の一致なしではやっていけない。そのために教会の中には、信仰と愛における一致を育む非常に特別な仕事がある。それが教皇の任務といわれるものであり、それをつかさどるのはローマ司教、すなわち教皇である。

中国における教会のミッションは、その何億という人々を前に、何よりも一致した、信頼性のある教会として存在することにある。そして、中国国民の生活があるところにはできる限り、どこにでも存在することである。どのような機会、状況、環境、あらゆる社会の出来事において、謙遜と、またキリスト教的希望に基づく先見性をもって、彼らと運命を共にし、神が自らお与えになる未来から人類が切り離されないように、良い未来を拓くことである。

今日、グローバル化や豊かさの普及、生活や環境クオリティ、平和や人権など、また環境や人間関係の消費主義と切り離せない世俗化、他者と対抗しながらも自分たちの利害を追求する国々、宗教的無関心、弱者や社会からはみ出した人々の締め出し、これら現代の大きな挑戦を前に、教会はまさにそこに存在し、世の命のために死に復活したキリストを告げ知らせる必要がある。

こうしたことは、言葉の上では、もっともらしく簡単に見える。キリスト教徒が良い心がけにあふれているならば、なぜ政府当局はキリスト教徒を恐れたり、彼らの前に多くの障害を置く必要があるのだろうか。実際には、その教会が置かれた具体的な環境を知ることが必要である。ある種の環境では、キリスト教徒の過ちや罪が非難されるだけでなく、彼らの良い行いまでもが、特に最初の頃は、歓迎されないことがある。

中国の政治当局もまた、かなり前から、宗教は経済の発展と社会正義の発展と共に消え去る表層的な現象ではなく、人間の構成的要素であることに、気付き始めている。純粋な宗教体験は、人々と社会の調和ある発展のために欠かせない要素である。現代の発展し複雑化した社会においても、宗教の存在は大きな活力と刷新力を示している。

中国において、儒教哲学の伝統的な見方によれば、親切や、友情、教育、権威に対する従順などの道徳の教えと共に、国家はあらゆる形の宗教を、法律をも利用しながら、厳しく管理する権利を持つという考えがある。一方で、19、20世紀の中国の歴史は、文化的・宗教的な要因がからまった、当時の政府に対する、いくつかの反乱や、社会的・政治的な様々な動きを記録している。これらの歴史的出来事をめぐる政治的見解は別とし、ここから宗教一般に対する考えに混乱や偏見が生じたことも念頭に置かねばならない。こうしたことが宗教的分派主義や、宗教感情の政治利用とは全く関係のない、偉大な宗教的伝統に損害を与えることになったといえよう。

中国の社会と文化は、原理主義的で理性を持たないアプローチと、カトリック信仰は全く合いいれないものであることを、より理解するよう招かれている。

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「聖なる命を守ろう」教皇、生命アカデミー関係者に

2018年6月25日バチカン放送日本語課の記事より。

「聖なる命を守ろう」教皇、生命アカデミー関係者に

教皇フランシスコは、バチカンの生命アカデミーの関係者とお会いになった。

教皇庁立生命アカデミー(議長:ヴィンチェンツォ・パイヤ大司教)は、このたびバチカンで、「生まれた時は平等?グローバルな責任」をテーマに、第24回定例総会を開催した。

教皇は総会参加者への言葉で、人生の素晴らしい仕事は、新しい人間を生み出すこと、精神性と創造性をもって教育すること、家庭や共同体において最初に愛を学ぶこと、弱さや傷を世話すること、そしてイエス・キリストにおいて神の子として新たに命を受けること、と話された。

教皇は、命をあきらめることは、貧しい人を飢餓に、迫害される人を戦争に、高齢者を疎外に追いやることであり、死に手を貸すという罪であると指摘。

悪は、死はすべての終わりであり、人はこの世に偶然生まれ、無に終わるよう運命づけられていると、わたしたちを説得しようとすると話された。

まだ生まれる前の無実の命を、毅然とした態度で、情熱的に守らなければならないと述べた教皇は、そこには聖なる人間の命がかかっていると呼びかけられた。

同時に、教皇は、貧しく生まれた命もまた聖なるものと強調。

貧しい人々を、貧困や、疎外、人身取引、病者や高齢者の隠された安楽死、新しい形の隷属、あらゆる形の切り捨てから、守る必要を説かれた。

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「信仰を喜びと、驚き、感謝をもって生きる」教皇、日曜正午の集い

2018年6月25日バチカン放送日本語課の記事より。

「信仰を喜びと、驚き、感謝をもって生きる」教皇、日曜正午の集い

教皇フランシスコは、バチカンで6月24日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

この日は、カトリック教会の典礼暦で、「洗礼者聖ヨハネの誕生」を祝った。

教皇は集いの説教で、ルカ福音書に記される、洗礼者聖ヨハネの誕生のエピソードを振り返った。

ザカリアと妻エリサベトには子どもがなく、二人ともすでに年をとっていた。教皇は、このために二人は疎外感と卑しめを感じ、失望を味わっていたと述べられた。

ザカリアが天使から、妻エリサベトが男の子を産む、と告げられた時(参照:ルカ1,13)、彼はにわかに信じることができなかった。それゆえに、主はザカリアが、妻が子を産むまでの間、話すことができないようにされた(参照:ルカ1,20)。

神はわたしたちの論理や人間的限界を超越した方と述べた教皇は、神に信頼し、その神秘を前に沈黙し、歴史の中で啓示され、時に人間の想像を超えるその御業を謙遜のうちに観想しなくてはならないと話された。

エリサベトとザカリアは「神にできないことは何一つない」(ルカ1,37)ということを体験し、大きな喜びに満たされた。

やがて、月が満ち、男の子を産んだエリサベトは、名付けの段階になって、「ヨハネ」という、その一族の伝統とは異なる名前を選んだ。

教皇は、「神は恵みを賜れた」という、その名前の意味を説明された。そして、この男の子はやがて、謙虚な信仰をもって救いを待ち望む貧しい人々のために、神の恵みを告げ、証しする者となるだろうと語られた。

口がきけなかったザカリアは、「ヨハネ」という名を確認し、人々に示すために、これを板に書いた。そのとたん、ザカリアは口を開き、舌がほどけ、神を賛美した。(ルカ1,64)

教皇は、洗礼者ヨハネの誕生の出来事全体が、喜びと、驚き、感謝に満ちていることを指摘。

人々もまた、神への畏れを感じ、ヨハネの誕生にまつわる出来事を話題にしながら、「この子はどんな人になるのだろうか」と言ったように、神の民は、信仰を喜びと、驚き、感謝をもって生きるよう召されていると述べられた。

教皇は、わたしたちも、自分たちの信仰がいつも同じで平板な信仰であるのか、それとも神の御業を驚きを持って見つめ、慰めや感謝を感じ得る信仰であるのかを、問い直さなくてはならないと呼びかけられた。

巡礼者への挨拶で教皇は、前日パラグアイの首都アスンシオンで、女子跣足カルメル修道会の修道女、ご聖体のイエスのマリア・フェリシア(1925-1959)の列福式がとり行われたことを報告。

前世紀、カトリック・アクションに熱心に参加し、お年寄りや病者、受刑者に奉仕し、使徒職の豊かな体験と日々のミサに支えられ、やがて奉献生活への召し出しに答え、34歳で帰天した同修道女の生涯を紹介された。

教皇はこの若き福者の信仰の証しが、パラグアイをはじめ、すべての若者たちに、寛大さと、温和さ、喜びをもって生きることへの招きとなるよう願われた。

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人事:教皇、東京大司教区の幸田和生補佐司教の引退を承認

2018年6月23日バチカン放送日本語課の記事より。

人事:教皇、東京大司教区の幸田和生補佐司教の引退を承認

教皇フランシスコは、東京大司教区の補佐司教、幸田和生司教の引退を承認された。

教皇庁は、6月23日付の人事に関する文書で、教皇が幸田司教の同教区・補佐司教職からの引退願いを認められたことを発表した。

ヤコブ幸田和生(こうだかずお)司教は、1955年3月生まれ。1985年3月、司祭叙階。2004年11月に東京大司教区の補佐司教に任命され、2005年2月、司教叙階。

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2018.6.23.〜2018.7.8.)

★★★鳥栖カトリック幼稚園外構工事のため7月一杯は佐賀銀行の職員駐車場をご利用ください。幼稚園駐車場はまだ完成していませんが、日曜日7時〜14時までは使えます。*警備員に一言お願いします。

★7月〜9月の日曜日のミサは小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時からになります。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。一度参加してみてください。

 

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