カテゴリー別アーカイブ: フランシスコ教皇メッセージ

「わたしは復活であり、命である」イエスの言葉に希望を置く、教皇一般謁見

2017年10月18日バチカン放送日本語課の記事より

「わたしは復活であり、命である」イエスの言葉に希望を置く、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで10月18日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中の教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、キリスト教的希望をめぐり、「主のうちに死ぬ者は幸い」をテーマに考察が続けられた。

教皇の講話に先立ち、ヨハネ福音書11章、ラザロの死に対し、イエスがラザロの姉妹マルタに、「あなたの兄弟は復活する」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言う場面が朗読された。

教皇は、死の現実は、現代の文明の中で消されつつあると述べる一方、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(詩編90,12)などの言葉に見られる、昔の人たちが持っていた死と正面から向き合う勇気を指摘。

死はわたしたちの人生を裸にし、わたしたちのプライドや怒りや憎しみが、ただの虚栄に過ぎなかったことに気付かせると共に、十分に愛さなかったこと、人生の本質を追求しなかったことを悔やませ、また、それと反対に、自分が蒔いた真に良い種を見つめることになると話された。

ラザロのエピソードを振り返った教皇は、イエスが友ラザロの墓を前に「心に憤りを覚え」て、「涙を流された」(ヨハネ11,35)その態度を、イエスをわたしたちの兄弟としてとても近くに感じさせるものと話された。

イエスは命の泉である御父に祈り、ラザロに墓から出てくるように命ずると、ラザロは出てきた。教皇は、キリスト教的希望は、イエスの人間の死に対するその態度から力を汲み取っていると述べられた。

教皇は、イエスが人の死を前にした時の、もう一つのエピソードとして、マルコ福音書5章、「ヤイロの娘」のエピソードを示された。

会堂長の一人ヤイロは、自分の幼い娘が死にかけていると、イエスのもとに来て助けを願い、そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行った。しかし、途中で子どもはもう亡くなったと知らされるが、イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5,36)と言った。そして、イエスは家に入り、少女を死から目覚めさせ、両親の手に返した。

イエスはこうして、わたしたちを信仰の尾根の上に立たせると述べた教皇は、兄弟ラザロを亡くして泣くマルタにイエスが言った「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ 11,25-26)という言葉は、わたしたちが人生の中で命や愛情と引き離されるたびに繰り返されていると説かれた。

わたしたちは皆、死の神秘を前に小さく無力であるが、その時、心に信仰のともし火が灯っているならばどれほどの恵みだろうかと語る教皇は、イエスはヤイロの娘にしたように、わたしたちの手を取って、「少女よ、起きなさい」( マルコ5,41)と繰り返してくださるだろうと話した。

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目覚めて待つことの大切さ、教皇一般謁見

2017年10月11日バチカン放送日本語課記事より

目覚めて待つことの大切さ、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで10月11日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、「目覚めて待つこと」をテーマに講話された。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」 (ルカ 12,35-36)。

教皇はイエスのこの言葉を示しつつ、主人が帰るまで決して眠らないしもべのように、目覚めて待つことを福音は教えていると話された。

「イエスは、わたしたちが神から贈られた毎日を感謝と驚きをもって受け入れるために、勤勉で、決して油断することがないようにと望まれている。」

「わたしたちはすでにイエスの贖いによって救われたが、イエスの完全な統治が表されるとき、『神がすべてにおいてすべてとなられる』( 参考:1コリント15,28)そのときを、わたしたちは待っている。救いと主との出会いのために、わたしたちは準備を整えていなければならない。」

教皇はこのように語られた。

「キリスト者は退屈を知らない、忍耐強い人々である」と言う教皇は、「キリスト者は単調な毎日にも、隠れた恵みの神秘を見つけ、どんな状況にあっても、愛に対して無感覚になることはない」、「全世界が希望を否定しても、キリスト者は未来にキリストの再臨があることを知っている」と話された。

イエスを知るおかげで、わたしたちは信頼と希望のうちに、歴史を注意深く見つめることができると教皇は指摘。

イエスは家で、わたしたちはその中にいるように、その窓を通してわたしたちは世界を眺め、自分自身や自分の過去に捉われずに、神の摂理の絶え間ない配慮の業としての未来を見つめることができると説かれた。

神は決して失望させない方であり、わたしたちに対するその御旨は、曖昧なものではなく、まっすぐな救いの計画であると教皇は話された。

「マラナ・タ」「主イエスよ、来てください」(黙示録22,20)と言う初期のキリスト教徒たちの言葉は、今もすべてのキリスト者たちによって繰り返されていると教皇は述べつつ、人生の困難な日々に、祈りの中で、「見よ、わたしはすぐに来る」(黙示録22,7)と、わたしたちを励ますその声を聞けるならば、どんなに大きな恵みだろうかと語られた。

教皇はこの謁見の席で、来る10月13日に、ポルトガル・ファティマで聖母の最後の出現から100年の記念年が閉幕することに言及。

主の母、宣教の女王マリアを見つめながら、特にロザリオの月であるこの10月、世界平和の意向のためにロザリオの祈りを捧げるよう、信者らを招かれた。

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「ぶどう園と農夫」のたとえを観想、教皇、日曜正午の集い

2017年10月9日バチカン放送日本語課記事より

「ぶどう園と農夫」のたとえを観想、教皇、日曜正午の集い

教皇フランシスコは、バチカンで10月8日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

教皇は説教で、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書中の「ぶどう園と農夫」のたとえ(21,33-43)を取り上げられた。

このたとえ話では、農夫たちの主人への忠実が試される。

ある家の主人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸し、世話を託した。収穫の時期、主人は収穫を受け取るために自分のしもべたちを送ったが、農夫たちはぶどう園が自分たちの所有であるかのように振る舞い、収穫を手渡すのを拒み、主人のしもべたちに乱暴し、殺すまでに至った。

忍耐強い主人は、さらに多くのしもべを送ったが、結果は同じであった。最後には、主人は自分の息子を送ることを決意するが、農夫たちは跡取り息子を殺して、相続財産を自分たちのものにしようと、主人の息子までをも殺してしまった。

教皇はこのたとえ話は、イスラエルの歴史をめぐる預言者たちの叱責を寓意的に表していると説明。

それは神が人間と結ぶことを望まれた契約について語るものだが、その契約の歴史にわたしたちもまた連なっていることを思い起こさせた。

神と人間との契約の歴史には、すべての愛の物語と同様、良い時もあれば、裏切りや拒否に会うこともあると教皇は述べつつ、このたとえ話に見るように、神はわたしたちの過ちや罪に失望することがあっても諦めず、仕返しするのではなく愛する方であり、「家を建てる者の捨てた石」から、やがて「隅の親石」となったイエスを通して、神はご自身のぶどう畑の「新しいぶどう酒」、すなわち「いつくしみ」を行き渡らせる、と語られた。

辛抱強く、優しい神の御旨を前に、唯一つ障害となるものは、わたしたちの傲慢さや自惚れであると教皇は指摘。

実を結ばせないこうした態度に対する神の強い警告として、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ21,43)というイエスの言葉を示された。

教皇は、主のぶどう園になるようにとの主の呼びかけに、善の実をもって答えるという急務に皆を招きながら、この愛の歴史に加わり、開いた、活気あるぶどう園となり、豊かな実と希望をもたらすことができるようにと願われた。

また、教皇は、閉鎖的なぶどう園は荒廃し、良いぶどうをもたらさないと述べ、あらゆる場所が主のぶどう園であるべきことを思い出すために、わたしたちは、ぶどう園の外の、わたしたちと共にいない兄弟姉妹たちに奉仕するよう召されていると話された。

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教皇「デジタル環境の中で子どもたちの尊厳を守ろう」

2017年10月6日バチカン放送日本語課の記事より

教皇「デジタル環境の中で子どもたちの尊厳を守ろう」

教皇フランシスコは、デジタル環境の中の子どもたちの尊厳の保護をテーマにした会議の参加者とお会いになった。

ローマの教皇庁立グレゴリアン大学で、10月3日から6日まで、「デジタル世界における未成年者の尊厳」をテーマに国際会議が開催された。

会議の最終日、参加者らはバチカンで教皇との出会いを持ち、講話に耳を傾けた。

教皇は関係者への言葉で、デジタル世界において未成年者の尊厳をより効果的に守ることは、今日特有の新しく重大な課題であると述べられた。

わたしたちが生きるデジタル世界は、昔ならば想像もつかない新しい世界であり、それは数十年でわたしたちの生活環境や、コミュニケーション手段を変え、わたしたちの考え方やアイデンティティーにまで影響を及ぼすようになったと教皇は指摘。

わたしたちはその世界が開く可能性に魅了される一方で、その発展の速さと共に生じる様々な新しい問題に恐れを抱いていると語られた。

教皇は、こうした状況の中で特に青少年の尊厳と、健全な発育、その喜びと希望を守ることを、人類家族の未来のための最も重要な挑戦として示された。              

今日、インターネット使用者の4分の1以上が未成年である事実を捉えながら、彼らはその世界に何を見るのか、またインターネットの世界で力を持つ人々はそれをどう認識しているのかと、教皇は問われた。

わたしたちはここ数年、未成年の性的虐待から目を背けてきた重大な過ちから学んだように、インターネットの世界で子どもたちにいったい何が起きているのか、その現実を正視しなければならないと強調された。

そして、教皇はインターネットに広がる深刻な現象として、過激な性的イメージや、暴力、いじめ、またインターネット環境のもとで行われる人身売買や未成年の搾取など、憂慮すべき闇の側面を示された。

これらの問題を前に、わたしたちは戦慄すると同時に、それに対応するための方向性を見出せないでいると教皇は述べ、その原因として、デジタル環境が国境やあらゆる年齢層を超えて世界に広がり、いかなる国ももはや単独ではその様相と発展をコントロールできないこと、またその発展の速さが高齢者たちをこの環境から締め出し、世代間の対話をほとんど不可能にすることで、成熟した助言・視点を伝えることができないでいることなどを挙げられた。

しかしながら、教皇は、むしろこうした状況において、互いが協力し合い、問題への効果的対応のための正しい道と態度を模索していくことが必要と呼びかけられた。

教皇は、デジタル界における未成年の問題を考える際の注意として、子どもたちがこの現象から受ける被害を決して少なく見積もらないこと、フィルタリングなどの技術的な対応だけでは十分でなく、広く多様な側面における倫理の力が必要であることを強調。

さらに、インターネットの世界は無限に自由であるとの認識を改め、違法なこと、犯罪的なこと、未成年を搾取し、尊厳を侵害することなどに対して、世界的レベルの協力をもって確固として対応しなければならないと語った。

子どもたちの眼差しはわたしたちの良心に呼びかけていると述べた教皇は、子どもたちが微笑みと信頼と希望をもってわたしたちを見つめ、わたしたちが子どもたちの目を勇気と喜びをもって見つめることができるよう、一緒に取り組んでいこうと関係者らにアピールされた。

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「技術発展の時代に、いのちに寄り添う」教皇、生命アカデミーの総会出席者に

2017年10月5日バチカン放送日本語課の記事より

「技術発展の時代に、いのちに寄り添う」教皇、生命アカデミーの総会出席者に

教皇フランシスコは、教皇庁生命アカデミーの関係者とお会いになった。

同アカデミー(議長:ヴィンチェンツォ・パイア大司教)は、「いのちに寄り添う。テクノロジー時代の新しい責任」をテーマに、定例総会を10月5日から7日までバチカンのシノドスホールで開催している。

会議初日、総会に出席した生命アカデミーのメンバーらを前に講話された教皇は、今日の生命科学技術の発展の中で、ヒューマニズム全体に投げ掛けられた時代的挑戦と向かい合うためには、生命の根源とその目的地を照らす神の御言葉から再出発しなければならないと説かれた。

テクノロジーの時代における生命の問題を、最も不可欠で緊急な課題と認識される教皇は、人間の至上性を中心に据えることにこだわる文化の危険に対し、すべての命、生命の初めから終わりまでそのすべてを愛することを教える、神の創造と贖いの神学が、今日の世界を歩む教会に非常に必要であると話された。

教皇は、男性と女性の社会における重要な責任に言及。男性と女性は互いに愛を語り合うだけでなく、神の愛の光のもとに人間の共存が実現するためになすべきことを、愛をもって話し合うよう招かれていると述べられた。

そして、女性に対しこれまで残念なことに与えられてきた従属的なあり方を、決定的に捨て去ると共に、新たなアイデンティティーと違いを持った文化から始めなければならないと語られた。

これについて、教皇は「中性のユートピア」は、両性の違いに基づく人間の尊厳と、命を生み伝える人間的性質をも取り去ってしまうと警告。

性の選択が完全に自由であるかのような、性差をめぐっての生物学的・心理的な扱いは、男女の協力関係を育み、創造的で、豊かなものとするエネルギーの源を壊してしまうとも述べられた。

神のいつくしみにおける信仰の証しとして、人間の生命をそのすべての段階において尊重し、大切にすること、それはヒューマニズムの麻痺と失墜を防ぐ土塁となるだろうと教皇は説かれた。

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「今日、希望の宣教者であるということ」教皇一般謁見

2017年10月4日バチカン放送日本語課の記事より

「今日、希望の宣教者であるということ」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで10月4日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「キリスト教的希望」をテーマに、今日において「希望の宣教者」であるとはどういうことかを考察された。

キリスト者は不運の預言者ではない、キリスト者が告げるのはその反対のことであると教皇は述べ、イエスは愛のために死に、神はイエスを復活させられた、これがキリスト教信仰の核であると話された。

もし、福音書がイエスの埋葬で終わっていたならば、イエスは預言者として、理想のために命を犠牲にした英雄たちの伝記に加えられ、福音書はためになり慰めを与えこそすれ、希望を告げるものにはならなかっただろうと語られた。

しかし、福音書は聖金曜日で終わることなく、その先へと進み、まさしくこの最後の部分がわたしたちの人生を変えることになったと教皇は話された。

イエスの十字架上での死によって、弟子たちの師イエスと過ごした熱狂的な3年間は終わり、彼らはすべてが終わったという思いの中で失望し、慄いていたと教皇は指摘。

イエスの復活という思いがけない出来事は、弟子たちのその思いを覆し、さらに聖霊降臨によって、彼らは変容させられた、イエスの復活は聖霊の力と共にわたしたちを変えたと説かれた。

イエスの復活を告げるには、言葉だけでなく、行いと生き方を通した証しが必要であり、信仰から来る希望を、人を受け入れる態度や、微笑み、特に愛することによって示していかなければならないと話された。

復活の力は、キリスト者に困難の中でも愛することを可能にすると述べた教皇は、「キリスト者には、精神力や楽観主義だけでは説明できない何かがある」「ある存在に助けられて、キリスト者の頭上には、空が幾分多く広がっている」とその力を表現された。

キリスト者のこの世の課題は、救いの空間を開くこと、と教皇は強調。

真のキリスト者は悲しみに沈まず、怒らず、復活の力によって、いかなる悪も無限ではなく、終わらない夜は存在せず、人間は永遠に誤りの中に留まらず、どのような憎しみも愛には勝利できないと確信している人のことと話された。

教皇は、中東のキリスト教徒をはじめ、迫害の中にも、神に希望を置き、人々と共に留まった信者たちの存在を思い起こし、彼らを真のキリスト者として称えられた。

わたしたちは、復活したキリストにおいて希望を保ち続けることができると述べた教皇は、キリスト者が希望の宣教者であるのは、自分たちの力ではなく、地に落ち、死に、多くの実をもたらした一粒の麦、イエスのおかげであると説かれた。

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教皇、来年10月の「若者」をめぐるシノドス前に、3月に青年たち参加の準備会議を召集

2017年10月4日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、来年10月の「若者」をめぐるシノドス前に、3月に青年たち参加の準備会議を召集

教皇フランシスコは、来年10月開催の「若者」をめぐるシノドスを前に、3月に青年たち参加の準備会議を召集された。

バチカンで2018年10月に、「若者たち、信仰と召命の判断」をテーマに、世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会が開かれる。

10月4日の一般謁見の席で、教皇は、次回シノドスに先立つ準備会議の開催を発表。

シノドス事務局主催で、2018年3月19日から24日まで開かれるこの準備会議には、世界各地から若いカトリック信者はもとより、他のキリスト教教会や、諸宗教、無宗教の若者たちも招かれると、教皇は明らかにした。

次回シノドスに向けた歩みの中に位置づけられるこの準備会議を通して、教会は若者たちの声を聞き、その感受性や、信仰、疑問、批判にも耳を傾けたいと願っていると述べた。

そして、この3月の準備会議の成果は、シノドス参加司教らに伝えられることになると話された。

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10月の教皇の祈りの意向:働く人たちと失業している人たちのために

2017年10月3日バチカン放送日本語課の記事より

10月の教皇の祈りの意向:働く人たちと失業している人たちのために

教皇フランシスコは、2017年10月の祈りの意向について、ビデオメッセージをおくられた。

カトリック教会は、毎月「教皇の祈りの意向」を示し、全教会が日々の祈りの中でその意向に沿って祈るよう招いている。

教皇の祈りの意向には、「世界共通」と「福音宣教」の2種のテーマがある。

この10月は世界共通の意向として、「働く人たちと失業している人たち」のために、次のように祈る。

「働く人たちすべてが尊重され、その権利が保障されますように。また、失業している人たちすべてが、共通の利益のために貢献する機会を得ることができますように。」

教皇はこの意向について、ビデオを通し次のように話された。

「わたしたちはいつも働く人たちの尊厳と権利を忘れてはなりません。そして、それらが侵害されている状況を訴え、人間と社会の真の発展のために寄与しなくてはなりません。

働く人たちのために祈りましょう。働く人たちすべてが尊重され、その権利が保障されますように。また、失業している人たちに、仕事を通して共通善のために貢献する機会が与えられますように。」

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教皇、新福音化推進評議会のメンバーと

2017年9月29日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、新福音化推進評議会のメンバーと

教皇フランシスコは、バチカンの新福音化推進評議会のメンバーとお会いになった。

教皇庁新福音化推進評議会(議長:サルバトーレ・フィジケッラ大司教)は、9月27日から定例総会を開催。会議最終日29日、参加者らはバチカン宮殿で教皇との出会いを持った。

関係者への挨拶で教皇は、今日の教会の、福音宣教への恒久の使命に対する努力と熱意を新たにする必要を強調。

昨年閉幕した「いつくしみの特別聖年」を全教会にとっての特別な恵みの時として思い起こされた教皇は、この感激が薄まったり、忘れられることがないようにと願われた。

神の民は神のいつくしみを贈り物として深く受け止め、この聖年を特に赦しの秘跡を通して、神の優しさと限りないその赦しを感じる機会としたと教皇は振り返った。

教皇は、教会がいつくしみの道具としてあり続けるための、その大きな責任を指摘。

神のいつくしみを世に知らせるために、そのいつくしみがキリスト者の生き方の中で具体的で目に見えるものとなるべきと話された。

また、教皇はこの席で、新福音化推進評議会が進める、11月19日の「第1回貧しい人たちの日」に向けた準備を励まされた。

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希望は心の原動力、教皇一般謁見、カリタスの難民救済キャンペーンに言及

2017年9月27日バチカン放送日本語課の記事より

希望は心の原動力、教皇一般謁見、カリタスの難民救済キャンペーンに言及

教皇フランシスコは、バチカンで9月27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を続けつつ、この日は「希望を妨げるもの」とは何かを考えた。

教皇はこのテーマを取り上げるにあたり、「パンドラの甕」の話を思い出したと述べた。

ギリシャ神話の登場人物、パンドラが決して開けてはいけないという甕を開けると、ありとあらゆる災いが世界に飛び出していったが、すべての悪が出て行った後で、甕に残っていたもの、それは「希望」であった。

教皇は、この神話は、なぜ人類にとって希望がこれほどにも大切であるかを物語っていると話し、「命がある限り、希望がある」とよくいうが、むしろ反対で、希望が人生をつないでいると述べた。

教皇は、この日からスタートした国際カリタスの難民救済キャンペーンを紹介。希望は、より良い生活を求め、家や土地、時には家族をも後にして旅立つ人たちの心の原動力であると話した。

同時に、希望は、出会い、互いを知り、対話を願う、受け入れる人々の心の原動力でもあると指摘。難民たちの旅を分かち合うこと、希望を分かち合うことを恐れないで欲しいと呼びかけられた。

希望とは、満ち足りた人々のための力ではない、貧しい人たちこそが、一番希望を持つ人々であると教皇は話し、満たされた人たちが眠り込む中、主の降誕の夜に目覚めていた人々、ヨセフやマリア、羊飼いたちなど、謙遜な人たちの存在を思い起こされた。

しばしば、恵まれすぎた人生というものは一つの不幸である、と教皇は語り、期待も、忍耐も、努力も学ばなかった若者がいるとすれば、何も望むことのない、夢を閉ざされた、最悪の生き方をすることになると警告された。

空虚な魂は、希望にとって最悪の妨げであると教皇は強調。これは誰にでもある危険であり、キリスト者の歩みの中でも希望を失う誘惑となりうると話した。

無気力は生活を内面から侵食し、抜け殻のようにしてしまうと教皇は注意を促し、神がわたしたちを喜びと幸福のために創られたことを忘れず、こうした神から来たものではない不幸の誘惑から心を守らなければならないと説かれた。

自分を弱く感じ、苦しみとの戦いが辛い時、わたしたちはいつでもイエスの御名に助けを求めることができると述べた教皇は、「主イエス・キリスト、生ける神の御子よ、罪びとであるわたしを憐れんでください」と祈ることで、キリストは扉を開け放ち、わたしたちに希望の地平線を見せてくれるだろうと話された。

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