カテゴリー別アーカイブ: フランシスコ教皇メッセージ

「夢を実現させる努力を」教皇、イタリアの青年たちに

2018年8月11日バチカン放送日本語課の記事より。

「夢を実現させる努力を」教皇、イタリアの青年たちに

教皇フランシスコは、ローマを巡礼したイタリアの若者、およそ7万人と、チルコ・マッシモでお会いになった。

2018年8月11日、ローマの古代競技場遺跡、チルコ・マッシモは、イタリア全土の教区から訪れた約7万人のカトリック青年たちの熱気であふれた。

青年たちのローマ巡礼は、今年10月3日から28日までバチカンで開催される「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマとしたシノドス(世界代表司教会議)に対する若者たち自身の関心を高め、同シノドスの実りを皆で祈るために、イタリア司教協議会によって企画されたもの。

司教や司祭らに率いられて各教区を出発した若者たちは、徒歩での巡礼や、ミサと祈り、カテケーシス、他教区の人々との交流などを経験しながら、12日のバチカンにおけるミサと、教皇との出会いを目指して進んだ。

11日、チルコ・マッシモで行われた前夜の祈りで、教皇フランシスコは広大な会場を特別車・パパモービルで一巡。出身地の旗を振り、歓声で応える若者たちに祝福を与えられた。

この集いでは、若者たちと教皇との質疑応答が行われた。

教皇は、未来への不安によって人生の重要な決定をためらう若者たちに、夢を持ち、それを実現させようと努力することの大切さを説かれた。

夢はわたしたちの眼差しを広げ、日常生活の一つひとつの行動に希望を与えるものであり、特に大きな夢は、自分を人と関わらせ、外に向かわせ、分かち合わせ、その希望の源に神を必要とするものと教皇は語られた。

そして、若者たちのすべきことは、勇気をもって、今日の夢を未来の現実に変えることと話された。

「この専攻では食べていけないから、別のものを選びなさい」「この計画は良いが、これと、これは、あきらめなさい」と人の意見を聞いているうちに、最後には何も残らなくなってしまう、と教皇は注意を促され、困難や抵抗を前にしても、勇気をもって、自分の夢がかき消されないように、あらゆる努力をすべきと励まされた。

かつてイタリアにも大きな夢を見る一人の青年がいたと、教皇は語り、その青年は父親の説得にも負けず、自分の夢を守るために司教館に駆け込み、その歩みを続けるために、服までも脱いで父親にすべて返した。この13世紀の一青年は、その名をフランチェスコといい、イタリアの歴史を変えることになったと、「アッシジの聖フランシスコ」の生涯を若者たちに思い出させた。

「悲観主義者で、何か良いことを成し遂げたという人をわたしは知らない」という聖ヨハネ23世の言葉を、教皇は若者たちに紹介。

「恐れが人を悲観的にしてしまう。リスクがあっても、夢を持ち、前進するように」と皆を勇気づけられた。

この土曜日、夜間も、チルコ・マッシモとバチカンの間にある多くの教会が開かれた。

教皇との前夜の集いを終えた若者たちは、翌日の聖ペトロ大聖堂巡礼とミサに備え、祈りや告解などを行った。

11 8月 2018, 17:33
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「悪を退け、善に忠実に」教皇、若者たちと日曜正午の祈り

2018年8月12日バチカン放送日本語課の記事より。

「悪を退け、善に忠実に」教皇、若者たちと日曜正午の祈り

教皇フランシスコは、8月12日、日曜正午の祈りを、巡礼のためローマを訪れたイタリアの若者たちと唱えられた。

この日、バチカンの聖ペトロ広場には、イタリア全土の教区からローマを目指して巡礼した若者たち、およそ7万人が詰めかけた。

これらの若者たちは、前日、8月11日、ローマ市内の古代競技場跡、チルコ・マッシモで、教皇フランシスコとの祈りの前夜祭に参加。そして、この朝、バチカンで、イタリア司教協議会議長、グアルティエロ・バッセッティ枢機卿司式のミサに与った。

教皇は、若者たちを前に行った正午の祈りの説教で、この日のミサの第2朗読「エフェソの信徒への手紙」(4,30-5,2)を取り上げながら、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(同4,30)という使徒聖パウロの招きを考察。

「神の聖霊を悲しませる」とはどういうことだろうかと問いかけられた。

わたしたちは皆、洗礼と堅信において聖霊を受け取ったが、聖霊を悲しませないためには、洗礼で約束し、堅信で新たにしたことを、言動一致で生きることが必要と教皇は指摘。

その約束とは、「悪を退け、善に忠実であること」と強調された。

教皇は、「悪を退ける」とは、誘惑や、罪、悪に「ノー」と言うことであり、より具体的に言えば、偽りや、ごまかし、不正義、他人に対する軽蔑など、現実から偽の幸せに逃避させる「死の文化」に「ノー」と言うことと話された。

そして、聖霊を源とし、洗礼を通してわたしたちに与えられた新しい命は、分裂や不和の感情に支配された振る舞いを拒否するがために、使徒聖パウロは、それぞれの心から、聖霊の喜びを乱す、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪と一緒に捨てなさい」(同4,31)と説いていると語られた。

しかし、同時に教皇は、悪を行わないというだけでは、キリスト者として十分でなく、「善に忠実に、善を行うこと」が必要と注意を促され、「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と言う聖パウロの善の勧めを示された。

「自分は誰にも悪いことをしていない」という人は、一方で善いことはしているのだろうか、と教皇は問いつつ、いったいどれだけの人が、悪いことはしないとしても、善いこともせず、無関心と無気力、なまぬるさの中に生きていることか、と話された。

「善は、悪をもたらさず、悪は、善をもたらさない」という、聖アルベルト・ウルタドの言葉を引用しながら、教皇は若者たちに「善の主役」となるように励ました。

「善の主役」となるためには、悪を行わないだけで満足してはいけないと教皇は述べ、憎まないだけでなく、赦すこと、恨まないだけでなく、その人のために祈ること、分裂の原因とならないだけでなく、平和のないところに平和をもたらすことが必要と教えられた。

教皇は、ローマ巡礼の若者たちに、愛のうちに歩み、次回の若者をテーマにしたシノドスを目指して一緒に進んでいきましょう、と呼びかけられた。

12 8月 2018, 17:00
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「わたしたちの弱さは、神との出会いの場所」教皇、一般謁見で

2018年8月8日バチカン放送日本語課の記事より。

「わたしたちの弱さは、神との出会いの場所」教皇、一般謁見で

教皇フランシスコは、一般謁見の席で、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソードを取り上げ、偶像崇拝について考えられた。

教皇フランシスコは、8月8日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

教皇は謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「十戒」の最初の掟、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20,3)の考察を継続。

この日は特に、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソード(32,1-8)に、偶像崇拝の背景や様相を見つめられた。

教皇は、出エジプト記の中で、民が「金の子牛」の鋳像を造った背景として、モーセが神から掟を授かるために山に登って行ったまま、なかなか降りて来ず、人々は荒れ野で長く待たされていたことを指摘。

荒れ野とは何か、それは不安定と不確かさに支配された場所であり、それは不安で一切の保証がない状態に置かれた人間の生活のイメージであると話された。

このような荒れ野に置かれながら、信頼する指導者、モーセの下山が遅れていたことが、人々の偶像崇拝につながったと教皇は話された。

モーセの消息がわからない人々は、目に見える神を望み、「我々に先立って進む神々を造ってください」と、モーセの兄アロンに言った。

教皇は、民のこのような態度について、「人間の本性は、不安定な状態から逃れるために、自作の宗教を求め、神が目に見えないのならば、自分たちで思い通りの神を創作しようとする」、「こうしたことからも、偶像とは、自ら作り出したものを崇拝しながら、現実の中心に自分自身を置こうとするための、一つの口実である」と話された。

アロンは人々の願いに抗することができず、「金の子牛」の鋳像を造った。

教皇は、「金の子牛」は、古代オリエントの影響下において、豊穣や豊かさ、また活力や強さを意味するだけでなく、何よりも金であることから、繁栄や、成功、権力、富などを象徴するものであったと説明。

すなわち、「金の子牛」とは、自由の幻想を与えるすべての欲望のシンボルであり、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものであったと述べられた。

しかしながら、人々が金の子牛を造らせた一番の原因は、神に信頼し、神の中に安全を求め、神に心の奥底にある真の願いを託すことができなかったことにあると、教皇は強調。

神を第一にしないならば、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでわずかな安心感を得るのみであると話された。

「豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた」(参照:2コリント8,9)イエス・キリストの神を受け入れる時、人は自分の弱さは人生の不幸ではなく、真に強いお方に自分を開くための条件であることを理解する、と述べた教皇は、真の神を唯一の主として受け入れることで、人は自由になり、自分の弱さを認め、心の中の偶像を拒否することができると語られた。

「わたしたちキリスト者は、十字架につけられたキリストを見つめ、その中に真の神の御顔と、愛の栄光の啓示を見出す」、「キリストにおいて、わたしたちの弱さは、もう災いではなく、御父との出会いの場所、天から与えられる新しい力の源となる」と、教皇はこのように説かれた。

08 8月 2018, 17:34
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教皇「命のパンであるイエスとの関係を深めよう」

2018年8月5日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「命のパンであるイエスとの関係を深めよう」

教皇フランシスコは、日曜日のお告げの祈りで、「命のパン」であるイエスと愛と信頼の関係を築くよう説かれた。

教皇フランシスコは、8月5日(日)、正午の祈りを、バチカンを訪れた巡礼者らと共に唱えられた。

集いの説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書中の、イエスがご自分を「命のパン」であると宣言するエピソード(6,24-35)を取り上げられた。

教皇は、先週の日曜日に「イエスが5千人に食べ物を与える奇跡」を考察した際、人々の差し迫った必要に関心を寄せるイエスのいつくしみあふれる姿を観想したことを振り返りつつ、

イエスのパンと魚の奇跡によって空腹を満たした群衆は、再びイエスを追い求めていったが、しかし、ここでイエスが人々に対し、ただご自身を求めるだけでは十分でなく、ご自身について知ることを望まれている点に教皇は注目。

イエスを求め、イエスと出会うことが、単なる物的充足を超越したもの、食べる物や着る物などの日常の心配を超えた、もっと広い世界にわたしたちの人生を開くものであることを、イエスは人々に示そうとされていると述べられた。

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(ヨハネ6,26)と言うことで、イエスは、ご自分が行った奇跡の恩恵にただ与るだけでなく、その意味を理解するよう人々を刺激している、と教皇は話された。

真の「命のパン」(同6, 35)であるイエスは、人々の体だけでなく、魂の飢えを癒すことを望まれるがゆえに、「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働くように」(参照:同6,26)と群衆を招いた。

その永遠の命に至る食べ物とは、イエスが毎日わたしたちに与えられるもの、すなわち御言葉と、御からだ、御血であったと教皇は説かれた。

人々が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うと、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われた(参照:同 6,28-29)。

教皇は、神を喜ばせるには何をすべきかを知ろうとする群衆に対し、イエスは神の業は「する」ことよりも、神がお遣わしになった者を「信じること」にあると言っている、と強調。

イエスとの愛と信頼の関係においてこそ、わたしたちは福音の香り漂う良い業を兄弟たちのために行うことができるだろうと語られた。

教皇は、パンを心配する必要があるならば、わたしたちの真理と正義と愛に対する飢えを満たすために来られた「命のパン」、イエスとの関係をより深め、イエスにおける信仰をいっそう強めることが大切と説かれた。

05 8月 2018, 17:18
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「真に愛するためには、偶像からの解放が必要」教皇一般謁見

2018年8月1日バチカン放送日本語課の記事より。

「真に愛するためには、偶像からの解放が必要」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見のカテケーシスで、今日の偶像崇拝に注意を促された。

教皇フランシスコは、バチカンで8月1日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

7月中、休止されていた教皇一般謁見は、8月に入ったこの日から、通常のように再開された。

このところローマは熱波に覆われており、そのため謁見はパウロ6世ホールで行われた。会場には、欧米諸国から訪れたミサの侍者の少年少女たちの姿が目立った。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は6月末まで継続していた「十戒」をめぐる考察に戻られた。

この日、教皇は「十戒」の最初の掟、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20,3)を、テーマに取り上げられた。

教皇はこの掟は、偶像や、偶像として扱われる可能性のある、あらゆる種類の像(イメージ)を禁じている、と述べられた。

教皇は、偶像崇拝は、信仰を持っているか、いないかに関わりなく、一つの人間的傾向として、誰でもが陥りやすいものと注意を喚起。

実際、偶像崇拝とは、異教的問題に留まらず、どのような時でも信仰に対する誘惑となりうるものであり、それは、神ではないものを神とすることである(参照:「カトリック教会のカテキズム」n.2113)と話された。

神とは人生の中心にあって、自分の行動や考えを左右する存在であると教皇は述べ、人間は何かを中心にしなければ生きることができないゆえに、世界は偶像のスーパーマーケットのように、物や、像、アイデア、役割等を提供していると語られた。

偶像崇拝は、どのように進むのだろうか。教皇はその展開を「あなたはいかなる像も造ってはならない…あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20,4-5)という、掟の続きの言葉に見出された。

「偶像」を意味するギリシャ語は、見るという動詞を語源に持つと教皇は紹介しつつ、「偶像」は強迫観念に至らせる一つのビジョンであり、それは実際には、物や計画に注がれた自分自身の投影なのであると説明された。

教皇は、まず、何かを所有したい、あるいは、ある計画を実現したい、ある地位に到達したいという考えが、幸福のための素晴らしい道、天まで届く塔(参照:創世記11,1-9)のように思われ、すべてはその目的のために費やされる過程に言及。

次いで「あなたはそれに向かってひれ伏してはならない」という言葉が警告するように、偶像が信心や儀式を要求し、すべてを犠牲に求めるようになる過程を教示された。

偶像が要求する犠牲について教皇は、古代は人身御供というものが行われたが、今日も、出世のためや、美しくあるため、有名になるため、お金儲けのために、人や生活が犠牲になっていることに変わりはないと語られた。

さらに、教皇は、偶像崇拝の最も悲劇的段階として、「あなたはそれらに仕えたりしてはならない」とあるように、偶像の奴隷となることの恐ろしさに触れられた。

偶像は、幸福を約束しながらそれを与えず、命を約束しながらそれを取り上げる、と教皇は指摘。

真の神は命を要求せず、むしろそれを与え、わたしたちに成功の幻想を抱かせず、その代わりに愛することを教えてくれると話された。

「自分にとっての偶像が何であるのかを知ることは、一つの恵み、愛の道の始まり」と述べた教皇は、真に愛するために、すべての偶像から解放される必要を説かれた。

01 8月 2018, 19:05
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「すべてを神の栄光のために」教皇、ミサの侍者たちに励まし

2018年7月31日バチカン放送日本語課の記事より。

「すべてを神の栄光のために」教皇、ミサの侍者たちに励まし

教皇フランシスコは、ローマを巡礼したミサの侍者の少年少女たちと、バチカンでお会いになった。

国際侍者協会(Coetus Internationalis Ministrantium,  CIM)の主催で、ローマに巡礼中のミサの侍者の若者、およそ7万人は、7月31日、バチカンで教皇フランシスコとの出会いを持った。

7月後半に入り、ローマでは連日猛暑が続いた。同月最終日、夕方とはいえ、まだ照り返しの強い聖ペトロ広場に、ヨーロッパを中心に19カ国から訪れた侍者の少年少女たちの元気な歓声が響いた。

この出会いで教皇は、聖ペトロ広場を埋め、さらに正面のコンチリアツィオーネ通りまであふれた参加者らを、特別車パパモービルの上から祝福し続けた。

集いの前半には、若者たちの代表と教皇との、質疑応答の形式をとった対話が行われた。

「ミサの中で、侍者として、また信徒として『平和のあいさつ』を人々と交換するが、この『平和』を、教会の壁の外にもたらすにはどうしたらよいか」という問いに対し、教皇は、「平和とミサは切り離せないもの」と指摘。

「主が与える平和は、わたしたちがキリストの手足となり、イエスと同じように感じ、考えることができるように、わたしたちを変容していきます。」

「ミサの終わりに、『行きましょう。主の平和のうちに』という言葉と共にわたしたちは派遣されます。それは、主の平和を自分の中に保ちながら、生活や、微笑、愛の業を通して、それを他の人々にも、もたらすようにということなのです。」

と、教皇はこのように答えられた。

また、「ミサの侍者をしながら、自分の同年代の人がミサや小教区の活動にあまり参加しないのを見て、悲しく思う」という言葉に対して、教皇は「皆さんこそが、同じ若者として、イエスに他の人たちを惹きつける使徒となることができるでしょう」と話した。

そのためにも「主イエスをよりいっそう知り、愛するように努めてください。周りにいる人と友情を築き、イエスを深く愛する皆さんの心を通して、イエスの光が彼らのところにも届くようにしてください」と願われた。

さらに「自分の人生には、神や、宗教、教会は必要ない、という人が多い。なぜ、信仰は重要なのか」という問いに、教皇は「信仰は、生きるための本質です」と答えられた。

「信仰は、呼吸する空気のようなものです。息をするたびに、空気がいかに必要かを、いちいち意識することはありません。でも、空気が足りない時、あるいは汚染されている時、それがいかに大切であるかに気付くのです。」

「信仰は、わたしたちが人生の意味を知ることを助けてくれます。それは、わたしたちを無限に愛してくれる誰かがいるということ。その誰かとは、神なのです。」

「神はわたしたちとの生きた関係の中に入って来ようとされている。神はわたしたちとの絆を築くことを望まれ、わたしたちもそうするようにと招かれています。」

「わたしたちは皆、神の子です。そして神の家族、すなわち教会、キリストにおける兄弟姉妹の共同体を築くようにと呼ばれているのです」

教皇はこのように語られた。

集いの後半には、聖書朗読や祈りが続いた。

「すべてを神の栄光を現すためにしなさい」(参照:コリントの信徒への手紙一10,31)という使徒聖パウロの言葉を、教皇は若者たちにイエスとの友情を生きる上での行動規範として示された。

「すべてを神の栄光のために」という使命は大きすぎるように見えるが、聖パウロやすべての聖人たちが、イエスに倣いながらこの使命を生きたように、それはわたしたちにも可能であると教皇は強調。

この日、7月31日に典礼暦で記念された聖イグナチオ・デ・ロヨラのごとく、自分の栄光ではなく、神の栄光に人生の中心と意味を見出し、すべてを神の栄光と兄弟たちの救いのためにするようにと、侍者の少年少女らを励まされた。

31 7月 2018, 21:14
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「人々の必要に関心を持ち、その状況に寄り添う」教皇、日曜の集い

2018年7月29日バチカン放送日本語課の記事より。

「人々の必要に関心を持ち、その状況に寄り添う」教皇、日曜の集い

教皇フランシスコは、日曜の集いで、ヨハネ福音書中の、イエスのパンと魚の奇跡を観想された

教皇フランシスコは、バチカンで7月29日、日曜正午の祈りを信者と共に唱えられた。

集いの説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、イエスが5千人に食べ物を与える (ヨハネ6,1-15)エピソードを考察された。

ここでは、ティベリアス湖の向こう岸に渡ったイエスを、群集が追っていったことが記される。山に登られたイエスは、ご自分の方に来る大勢の人々を見て、使徒フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ6,5)と言われた。

フィリポが自分たちの持っているお金では到底足りないことを告げているうちに、もう一人の弟子アンデレが、パン5つと魚2匹を持った少年を連れてきた。しかし、アンデレも、この少年が持っているわずかなものでは、大勢の人に食べさせるには、何の役にも立たないだろうと言った。

イエスは、人々を座らせるよう弟子たちに命じ、これらのパンと魚を取り、御父への感謝の祈りを唱え、人々に分け与えられた。すべての人は、それを食べて満腹した。

教皇は、ここで持っているだけのパンと魚を差し出そうとした少年の勇気を称賛。

必要ならば使って欲しい、という若者たちのこうした勇気を、わたしたちは支えてあげなくてはならないと語られた。

「(イエスは)大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」(参照:マルコ6,34)という、先週日曜の福音朗読箇所の記述を思い起こした教皇は、ここにも、人々の一番の必要に関心を持つイエスの憐みに満ちた眼差しを感じ取られた。

このエピソードで、人々は飢えており、その飢えを満たすために、イエスは弟子たちに働きかけたということは、具体的な事実であると教皇は強調。

人々に言葉と、慰め、救い、そして最後にはご自身の命までをも与えられたイエスは、それだけでなく、人々の体に対する食べ物にも配慮されていると述べた教皇は、イエスの弟子であるわたしたちも見て見ぬふりをせず、人々の単純な必要に関心を持ち、それぞれの具体的な状況に寄り添ってこそ、より高い精神価値を説く時にも、耳を傾けてもらえるだろうと話された。

パンと自由、正義と平和、そして特に神の恵みに飢えた人類に、神の愛は決して欠けることはないと述べた教皇は、今日もイエスは、わたしたちを通して、こうした人々の飢えに応え、生き生きとした、慰めに満ちた存在として傍らに留まり続けると説かれた。

教皇は、このエピソードの後半、すべての人が満腹した時、イエスが弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(ヨハネ6,12)と言われたことに注目。

食べ物が捨てられるのを見ると、飢えた人たちのことを思うと述べた教皇は、食べ物が余ると捨ててしまうという人は、祖父母らの体験に学び、再利用したり、必要とする人に与えるなど、食べ物を決して無駄にしないようにと勧められた。

29 7月 2018, 17:26
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イエスの憐みに満ちた眼差しを観想、教皇、日曜正午の集い

2018年7月23日バチカン放送日本語課の記事より。

イエスの憐みに満ちた眼差しを観想、教皇、日曜正午の集い

教皇フランシスコは、バチカンで7月22日(日)、正午の祈りを信者と共に唱えられた。

集いの説教で教皇は、この日朗読された、マルコ福音書(6,30-34)を観想された。

この箇所には、最初の宣教に派遣された弟子たちが、宣教先から戻り、イエスのところに報告に集まってきたことが記される。

「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(同6,30)とあるように、弟子たちの初めての宣教体験は熱意に満ちたものだったに違いないと教皇は述べつつ、同時にその体験は何かと困難を伴うものでもあっただろうと想像された。

「さあ、あなたがただけで、人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」(同6,31)とイエスが言われたのは、こうした弟子たちの疲労を理解し、思いやられたからであると教皇は指摘された。

しかし、イエスのこの意図は、多くの人々が先回りをして、彼らの行先に向かったために、実現は不可能であった。

わたしたちもまた、自分の計画を実行しようとする時、緊急の用事で、それを断念し、人を助けるために柔軟に対応することが求められることがあると、教皇は語られた。

このような状況の中で、イエスは「舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(同6,34)。

イエスのこの態度からわたしたちは学ばなければならないと話された教皇は、イエスの群集を見る「眼差し」、冷たく無関心ではなく、常に心の目で見つめる、「憐み」に満ちたその眼差しを観想。

また、イエスの憐みは、単に人々の境遇に対する感情的な反応を超え、神のご自分の民に対する配慮と気遣いを反映するものであったと話された。

イエスがご自分の助けを求める人々にまず示されたのは、奇跡ではなく、いろいろな「教え」であったことに教皇は注目しながら、飢えた、道に迷う人々に、メシアが最初に差し出したパンは、みことばのパンであったと強調。

わたしたちは皆、自分たちの歩みを照らし導く、真理の言葉を必要とし、イエスご自身であるこの真理なしでは、人生の正しい導きは得られない、と説かれた。

イエスとその愛から遠ざかる時、わたしたちは道に迷い、人生は失望と不満に変わってしまうと述べた教皇は、イエスと共に、試練を乗り越え、神と隣人への愛のうちに成長しながら、確かに歩んでいくよう信者らを招かれた。

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教皇「漂流する移民の悲劇が繰り返されないように」

2018年7月23日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「漂流する移民の悲劇が繰り返されないように」

教皇フランシスコは、移民の安全と権利を守るようアピールされた。

教皇は、7月22日、バチカンで行われた日曜正午の集いで、地中海で起きている移民の悲劇に言及された。

ここ数週間、地中海で移民船が漂流するニュースが増えている現状に、深い悲しみを表された教皇は、海上で亡くなった人々とその遺族のために祈りを約束された。

教皇は、このような悲劇が繰り返されることのないように、また、すべての人の安全と、権利、尊厳が保証されるよう、国際社会に受け入れの態度と、毅然とした行動を呼びかけられた。

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教皇「スポーツが出会いの文化を推進するように」

2018年7月16日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「スポーツが出会いの文化を推進するように」

教皇フランシスコは、ブラジルで行われるスポーツをテーマにしたセミナーにメッセージをおくられた。

リオデジャネイロで、2018年8月25日、「人間的・経済的・社会的発展の手段としてのスポーツ」をテーマとしたセミナーが開催される。

同セミナーには、教皇庁から文化評議会関係者が出席する。

教皇はセミナー開催に先立ち、バチカン国務長官ピエトロ・パロリン枢機卿を通し、メッセージを託された。

この中で教皇は、社会の発展において、人間の統合的育成を助ける実践的手段として、スポーツの推進を続けてほしいと願われた。

教皇は、「スポーツとは単なる娯楽の形ではなく、特に出会いと、兄弟愛、連帯の文化を築く手段、また、より平和と正義に満ちた世界を築くための、確かな道であると確信している」と述べ、セミナー参加者らを励まされた。

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