カテゴリー別アーカイブ: フランシスコ教皇メッセージ

「十字架という王座を選び、自らを与える神」教皇、日曜の集いで

2018年10月21日バチカン放送日本語課の記事より。

「十字架という王座を選び、自らを与える神」教皇、日曜の集いで

教皇フランシスコは、「奉仕の道は、出世を渇望する病に最も有効な薬」と話された。

教皇フランシスコは、バチカンで10月21日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

祈りに先立つ説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、イエスが栄光を受ける時には自分たちをイエスの左右に座らせて欲しいと、弟子ヤコブとヨハネが師イエスに願い出る場面 (マルコ10,35-45)を取り上げられた。

教皇は、イエスはここでも大きな忍耐をもって、弟子たちをこの世のメンタリティーから、神のそれへと回心させようとしている、と話された。

イエスの最初の弟子たちであるヤコブとヨハネは、イエスとその御国への情熱に燃えていたが、彼らの熱心さはこの世の精神に染まっていた、と教皇は指摘。

そのため、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(同10, 38)と言われたが、特権を熱心に望むヤコブとヨハネは、「できます」(同10, 39)と答えるばかりであり、ここに至っても、彼らは自分たちの言っていることが分かっていなかった、と、その状況を説明された。

イエスのこの言葉は、ヤコブとヨハネも、他の弟子たちと同じく、その時が来れば、ご自身の十字架に加わることになるだろうという預言であったが、それは同時に「わたしに従い、犠牲における愛の道を学びなさい」という師の招きでもあったと教皇は述べた。

また、他の10人の弟子たちも、これを聞いてヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたが、それは彼らも同様にこの世の精神に煩わされていることの証拠であった、と話された。

そこで、イエスは弟子たちに「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(同10,42-44)と教えられた。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(同10,45)というイエスの言葉を教皇は観想。

地上の支配者たちがその権力のために「王座」を築く一方で、神は十字架という心地よくない王座を選び、自分の命を与えることで、その王国を治める、というイエスのメッセージをそこに示された。

「奉仕の道は、出世を渇望する病に最も有効な薬」と述べた教皇は、わたしたちがキリストの弟子として、この福音を受け入れ、貧しい人々に愛と単純さをもって奉仕できるようにと祈られた。

21 10月 2018, 17:00
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

世界宣教の日:教皇「若者たちと共に、これこそが道」

2018年10月21日バチカン放送日本語課の記事より。

世界宣教の日:教皇「若者たちと共に、これこそが道」

10月21日、カトリック教会の「世界宣教の日」が記念された。

教皇フランシスコは、10月21日、バチカンで行われた日曜正午の集いで、この日記念された「世界宣教の日」に言及された。

カトリック教会の「世界宣教の日」は、すべての信者の宣教心を喚起すると共に、宣教のための霊的・物質的援助と、宣教者間の交流推進を目的とするもので、10月の最後から2番目の日曜日に記念される。

今年のテーマは、「若者たちと共に、福音をすべての人に伝えよう」。

「『若者たちと共に』、これこそが道です」と述べた教皇は、現在バチカンで開催中の「若者」をテーマとするシノドスにおいて、イエスの中に人生の意味と喜びを見出した青年たちの、たくさんの証しに接していると話された。

そして、これらの若者たちは、すでに教会活動に参加している同年代の人たちのおかげでイエスと出会ったという場合が多いと紹介された。

教皇は、新しい世代の人々に、宣教精神と、教会のミッションに協力するための召命が欠けることがないようにと願われた。

21 10月 2018, 18:00
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

十戒の「殺してはならない」とは、愛への招き、教皇一般謁見

2018年10月17日バチカン放送日本語課の記事より。

十戒の「殺してはならない」とは、愛への招き、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「十戒」の「殺してはならない」をめぐり考察を続けられた。

教皇フランシスコは、バチカンで10月17日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中の教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、先週に続き、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」をめぐる考察が続けられた。

兄弟への怒りに対する、イエスの教え

カテケーシスの冒頭、マタイ福音書の数節(5,21-24)が朗読された。

この箇所でイエスは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5,21-22)と教えている。

さらに、イエスは、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(同5,23-24)と、兄弟を決して罵らず、和解するようにと説いている。

「十戒」に、より深い意味を与えるイエス

教皇は、イエスはこの教えを通して、「十戒」中の「殺してはならない」という掟に、より深い意味を与えられた、と話された。

教皇は、イエスはここで、兄弟に対する怒りも、人を殺すことの一つの形であると明言しており、それは「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(1ヨハネ3,15)と、使徒聖ヨハネも記すとおりであると話された。

また、イエスはそれだけにとどまらず、同じ論理をもって、兄弟を罵ることや軽蔑することも、人を殺すことと同様にみなしていることを、教皇は指摘。

人間のどのような法律も、裁きにおいて、これほど異なるものを同列にみなしているものはないと話された。

さらに、イエスは、祭壇に供え物を捧げる前に、まず行って兄弟と仲直りをし、それから、供え物を捧げるようにと教えている。

「殺すな」とは、愛することへの第一歩

教皇は、イエスが「十戒」の第5戒「殺してはならない」の領域をここまで拡大したのは、なぜだろうかと問われた。

人間は気高く繊細な命を持ち、体と同様に大切な「わたし」を隠し持っていると述べた教皇は、無垢な子どもを傷つけるには、不用意な言葉一つで十分であり、一人の人を破滅させるには、彼を無視するだけで足りると語られた。

こうしたことから教皇は、「『愛さない』ことは、殺すことへの最初の一歩であり、それに対し、『殺すな』ということは、愛することへの第一歩である」と説かれた。

人間の命には、愛が必要

教皇は、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」という神の問いに、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4,9)と答えた、聖書における最初の殺人者、カインの言葉を引用。

「お前の兄弟は、どこにいるのか」という神の問いに、「知らない。わたしには関係ない」という殺人者たちに対し、わたしたちは兄弟たちを「知っている」「わたしたちは互いに守り合う関係にある」と答えられるようでなければならない、と話された。

「人間の命には愛が必要」と教皇は述べ、真の愛とは「キリストがわたしたちに示されたいつくしみ」「自分を傷つけた者を、赦し、受け入れる愛」であると説かれた。

誰もがいつくしみや赦しなしでは生きることができない。それゆえ、殺すことが、誰かを破壊する、排除することであるならば、殺さないとは、その人を大切にし、価値を与え、受け入れ、赦すことである、と教皇は語られた。

教皇は、「十戒」の「殺してはならない」という掟は、最も重要で本質的な呼びかけ、すなわち「愛への招き」である、と話された。

 

17 10月 2018, 17:33
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

教皇「聖霊のパン種と共に歩み成長する」

2018年10月19日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「聖霊のパン種と共に歩み成長する」

教皇フランシスコは、聖霊のパン種によって、外に向けて成長するようにと、信者らを励まされた。

教皇フランシスコは、10月19日、バチカンのサンタ・マルタ館で、朝のミサを司式された。

教皇はミサ中、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書の、イエスが偽善に注意するよう弟子たちに教える場面(12,1-7)を取り上げ、説教を行われた。

この箇所で、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と説く。

教皇は、「パン種」には、パンを大きく育てる「良いパン種」と、ファリサイ派の人々のパン種のような、偽善という「悪いパン種」があると話された。

偽善者たちは、自分という存在から外に出ることなく、自分の内側にあるもの、自身の安全とエゴイズムを守る人たちであると教皇は述べ、偽善とは、追いはぎに襲われて半死の人を置き去りにすること、重い皮膚病の人に会っても、自分の内側の律法に従って、見て見ぬふりをすることであると語られた。

一見礼儀正しいようであっても悪い習慣を内に秘めている、偽善という危険なパン種に対してイエスは警告し、それを容赦されない、と教皇は話された。

教皇は同じくこの日朗読された、使徒聖パウロの「エフェソの信徒への手紙」(1,11-14)を引用。

悪いパン種が内側へと成長し、未来を持たないのに対し、よいパン種を持った人は、外に向けて成長し、「神のご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者」(エフェソ1,11)となる、と説かれた。

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、 約束された聖霊で証印を押されたのです」(同1,13)というパウロの言葉を示しつつ、教皇は、聖霊で証印を押されたわたしたちが、神の栄光へとわたしたちを導き励ます聖霊のパン種と共に歩み、「外へ」「水平線」へと向かって成長できるようにと祈られた。

19 10月 2018, 17:20
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

教皇「神が愛するすべての命を、軽視してはならない」一般謁見

2018年10月10日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「神が愛するすべての命を、軽視してはならない」一般謁見

教皇フランシスコは、十戒の「殺してはならない」という掟に、神の愛といのちの価値を示された。

教皇フランシスコは、バチカンで10月10日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇はモーセの「十戒」の考察に戻りながら、第5戒「殺してはならない」(出エジプト20,13、申命記5,17)を考察された。

「殺してはならない」は、命の価値を守る掟

教皇の講話の前には、「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」という「知恵の書」(11, 24-26) の言葉が朗読された。

「殺してはならない」というこの第5の戒から、「十戒」の中でも、神との関係をめぐる前半の部分に対し、隣人との関係をめぐる後半の部分に入ったことを、教皇は指摘。

この簡潔で絶対的な掟は、人間関係における基本価値、すなわち命の価値を守る城壁としてそびえていると話された。

すべての悪は「命に対する侮べつ」

この世で行われるすべての悪は、「命に対する侮べつ」という言葉に要約できると教皇は述べ、戦争や、人を搾取する組織、投機目的の自然破壊、切り捨ての文化、利益のために人を服従させるシステム、人間の尊厳にふさわしくない生活をする数多くの人々の存在など、命の軽視の結果である様々な状況を挙げられた。

教皇は、母親の胎内における人命に対し、別の権利の名のもとに、その中絶を認めることは、矛盾したアプローチであると強調。

花開こうとしている、つぼみのような無垢で無防備な命を殺す行為が、どうして臨床上、社会的・人間的行為と言えるのか。一つの問題の解決のために、一人の人間の命を亡き者にすることが、正義にかなっているのか。それはまるで、問題をなくすために、刺客を雇うのと同じではないのか、と教皇は問いかけられた。

恐れから来る命の拒絶

命に対するこのような拒絶は、どこから発するのか、何を原因としているのか。教皇は、それは「恐れ」から生じると話された。

実際、他の存在を受け入れることは、個人主義に対する挑戦である、と教皇は述べ、例えば、生まれてくる子どもが重い障害を背負っている場合を考えられた。

このような場合、両親の苦しみは大変なものであると、教皇はその不安に理解を示された。

両親たちは、恐れを乗り越え、現実に立ち向かうために、真の寄り添いと、真の連帯を必要としているにも関わらず、多くの場合、妊娠を中絶するようにとの性急なアドバイスを受けることになる、と話された。

人生の真の物差しは「愛」の中にある

病気の子どもは、お年寄りや貧しい人のような、社会で助けを必要とするすべての人々と同様に、一つの「問題」として提起されるが、それは実際には、わたしたちを自己中心主義から外に引きずり出し、愛の中に成長させる、神の「恵み」であると教皇は説かれた。

人を命の拒絶に至らせるもの、それはお金や、権力、成功といった、この世の偶像、人生を測るための「間違った物差し」であると述べた教皇は、人生の「真の物差し」は、すべての命を愛される神と同じ「愛」の中にあると話された。

そして、教皇は、「殺してはならない」という戒に、「知恵の書」にあるごとく、神は「すべてをいとおしまれる」方であるという、ポジティブな意味を示された。

わたしたちを愛の喜びに開くキリスト

人となられた神の御子は、人間の拒絶された状態や、弱さ、貧しさ、苦しみを、ご自分の十字架の上に引き寄せられた。病気の子どもや、体力の衰えたお年寄り、絶望した移民、すべてのはかない脅かされた命の中で、キリストはわたしたちを探し、わたしたちの心を愛の喜びに開こうとしてくださる、と説かれた。

教皇は、すべての命を受け入れることには価値がある、なぜなら、すべての人はキリストの尊い血に値する(参照:1ペトロ1,18-19)からであると述べ、「神がこれほどまで愛された命を、侮べつすることはできない」と呼びかけられた。

また、教皇は、「殺してはならない」という掟は、自分たちの命にもあてはまることを指摘。若い人たちに「自分の命を軽んじてはいけない。神の業を拒んではならない。あなたは神の作品なのだ」と伝えなくてはならないと話された。

10 10月 2018, 16:36
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

教皇「主を愛するキリスト者の生活とは」

2018年10月9日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「主を愛するキリスト者の生活とは」

教皇フランシスコは、朝のミサで、マルタとマリアのエピソードをめぐり、説教を行われた。

教皇フランシスコは、10月9日、バチカンのサンタ・マルタ館でミサを捧げられた。

説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書の、マルタとマリアのエピソード(10,38-42)を取り上げられた。

この箇所では、イエスを家に迎えた、マルタとマリアという姉妹の対比が描かれる。

イエスがこの姉妹の家に迎えられた時、マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。もてなしのためにせわしなく立ち働いていたマルタは、イエスに、マリアに手伝うように言ってほしいと頼んだ。これに対し、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」と答えられた。

教皇は、マルタとマリアのエピソードは、それぞれの行動を通して、主を深く愛するキリスト者の生活とは、どのようなものであるべきかを教えてくれると話された。

マルタを「強い女性」として認識される教皇は、マルタがこのエピソードでも、また兄弟ラザロの死(ヨハネ11章)においても、イエスに積極的に話しかけ、自分の思いを言い、率先して動く、勇気ある女性であることを指摘。しかし、マルタは、観想することに時間を費やすことができなかった、と話された。

教皇は、マルタのように忙しく暮らす、今日のキリスト者たちに目を向け、日曜日のミサには行くが、それ以外は、子どもたちと遊ぶ時間もないほど多忙で、常に時間に追われている信者たちに、「立ち止まり、主を見つめ、聖書を手に取って御言葉に耳を傾け、心を開くように」と呼びかけられた。

いつも忙しく動き回り、良いことをしていても、それは人間的な善であって、キリスト教的善ではない、そこには観想と心の平和が欠けていると、教皇は注意された。

これに対して、マリアは主の話しに聞き入っていたが、それは何もしていなかったわけではない。マリアは主を見つめ、主の言葉に触れ、そこから、後にすべき仕事のための霊的な力を汲み取っていたと述べた教皇は、その姿を、「祈り、そして働け」というベネディクト会の修道者たちの精神と重ねられた。

また、教皇は、たとえば夫を愛する妻は、家事のためにどれほど忙しく動き回っていたとしても、夫と一緒にいる時間を作り出すだろう、と話し、わたしたちも主のために時間を捧げることで、他の人に奉仕する力を得ることができると話された。

毎日の生活の中で、イエスの神秘を観想しているか、そして信仰と福音にふさわしい形で仕事をしているかを、それぞれが自問するようにと、教皇は皆に勧められた。

09 10月 2018, 16:07
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

「神の贈り物である、夫婦の絆」教皇、日曜正午の集いで

2018年10月7日バチカン放送日本語課の記事より。

「神の贈り物である、夫婦の絆」教皇、日曜正午の集いで

教皇フランシスコは、日曜正午の集いの説教で、結婚をめぐるイエスの教えを示された。

教皇フランシスコは、バチカンで10月7日(日)、正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

祈りの前に教皇は、この日曜日の福音朗読箇所(マルコ10,2-16)から、結婚をめぐるイエスの教えを取り上げて説教された。

この箇所で、イエスはファリサイ派の人々から「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と尋ねられる(同10,2)。イエスは、モーセは何と命じたかと問い返すと、彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った(同10,3-4)。

イエスはモーセのこの掟について「あなたたちの心が頑固なので、このような掟を書いたのだ」(同10,5)と答えた。

教皇は、イエスは御父から来る叡智と権威をもって、モーセのこの掟は、わたしたちの利己主義が生んだ過ちに対し、必要上講じた一つの譲歩であって、創造主の本来の意図に合致しない、ということを言っている、と説明。

「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(同10,6-8)と、イエスは「創世記」にさかのぼって、創造主の本来のご計画を示しつつ、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(同10,9)と説いている。イエスはこれを通して、男女は結婚において、互いに認め合い、補い合い、助け合うよう招かれていることを教えている、と教皇は話された。

イエスのこの教えは大変明確で、忠実を必要とする愛の絆としての、結婚の尊厳を保護するもの、と教皇は強調。

結婚において、夫婦が一致を保つことを可能にするのは、キリストの恵みに支えられて、互いに与え合う愛であり、これに対し、自分の満足のために、個人の利害を優先させる時、夫婦の一致は保てなくなる、と語られた。

教皇は、この日の福音は、愛を共に生きるように召された男女が、結婚を痛ましくも危機に陥らせるような態度を取る可能性があることを、大きなリアリズムをもって思い出させていると指摘。

イエスは夫婦関係を挫折に至らせるすべてを容認しないことで、人間関係の力と美しさが際立つ、結婚という神のご計画を確認しようとしている、と述べられた。

教会は、聖書と伝承からもたらされた家庭の素晴らしさを、飽くことなく確認する一方で、壊れた関係を体験する人々や、苦労のうちに関係を維持している人々に、母として具体的に寄り添う努力をしていると、教皇は話された。

傷ついた愛は、いつくしみと赦しを通して、神によって癒される。それゆえ、教会はこの状況において、すぐに裁くことなく、傷を受けた心を神に再び導くために、愛といつくしみを伝える存在となるよう召されていると説かれた。

教皇は、夫婦たちが、神の贈り物としての絆を生き、それを常に新たにしていくことができるようにと、聖母の取り次ぎを祈られた。

07 10月 2018, 16:10
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

シノドス:教皇「自分を発見するには、行動することが大切」と若者たちの集いで

2018年10月6日バチカン放送日本語課の記事より。

シノドス:教皇「自分を発見するには、行動することが大切」と若者たちの集いで

教皇フランシスコは、シノドスのイベントとして、若者たちとの集いを持たれた。

教皇フランシスコは、10月6日、バチカンで行われた若者たちの祝祭に参加された。

この集いは、バチカンで開かれている、「若者、信仰そして召命の識別」をテーマにしたシノドス(世界代表司教会議)のイベントの一環として、シノドス事務局と教皇庁教育省の協力で催された。

シノドス4日目の午後、会場のパウロ6世ホールには、7千人の青少年が集った。参加者らは、音楽や踊り、写真やビデオ映像、そして証言などを通して、教皇やシノドスの司教らに、今日の若者たちが置かれた環境や、直面する問題などを、様々な角度から伝えた。

代表の若者たちの証言では、少年院での生活を終えて学業に復帰した青年、イラクから難民としてフランスに渡った学生、家庭の愛情に飢えて道を誤ったが現在は教会の活動に励む女性、施設でアルコール依存症から立ち直りつつある青年、修道者の召命を歩む女性、駆け出しの看護師として病者と接する女性らが、自己の過去と現在を紹介しながら、人生における信仰との出会いを語った。

次いで、青年たちから、自分や他人の存在の価値をどうしたら発見できるのか、心の空洞をどうしたら埋めることができるのか、仕事やチャンスがないのにどうして夢を実現できるのかなどの問いが続いた。

またこの中には、パキスタンの青年からの、自分の国ではキリスト教徒が迫害されているが、教会はそうした国の若い信者に何をしてくれるのか、などの質問もあった。

教皇は、若者たちに、用意された原稿を用いずに話しかけられ、こうした皆さんの質問に答えることが、シノドス司教らの課題であると述べられた。

教皇は、若者たちそれぞれが自分の道を切り開くようにと励まされた。

「自分を発見するには、鏡を見るのではなく、行動することが大切」と教皇は強調。善と真理と美を発見しに行く歩みの中で、自分自身を見出すことができるだろうと話された。

キリスト教的価値観を失わずに政治をすることは可能か、という若者たちの問いに、教皇は、「イエスがわたしたちに教えられたように、真の権力とは奉仕です。さもなくば、それは、他人を貶め、成長を妨げ、支配する、エゴイズムになってしまう」と語られた。

また、教皇は、「若い皆さんの価値は計り知れません。皆さんは競売される商品ではありません」と、イデオロギーや市場の原理の犠牲にならないようにと忠告。人を隷属させ、依存させるイデオロギーに買われたり、誘惑されないようにと助言された。

06 10月 2018, 20:15
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

「信仰生活を単なる習慣にしない」教皇、ミサの説教で

2018年10月5日バチカン放送日本語課の記事より。

「信仰生活を単なる習慣にしない」教皇、ミサの説教で

教皇フランシスコは、朝のミサで、キリスト教生活を単なる社会習慣のように、形式的に生きてはならないと注意された。

教皇フランシスコは、10月5日、バチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂でミサを捧げられた。

説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書のイエスが悔い改めない町を叱る場面(ルカ10,13-16)を取り上げられた。

この場面でイエスは、奇跡が行われても、悔い改めようとしなかった、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町を叱責された。イエスは、ガリラヤ地方のこれらの町々を、異邦人の地であるティルスやシドンと対比し、これらの町で奇跡が行われていれば、とうの昔に悔い改めただろう、と述べている。

教皇は、イエスは奇跡を行ったにも関わらず、ご自分を拒否し、回心しなかった町のために嘆き、彼らすべての心に愛のメッセージが届かなかったことを悲しまれた、と話された。

教皇は、キリスト者としての自分たちの態度を、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の人々の態度と重ねて考えるようにと招いた。

「自分たちは主から多くを受け取り、救いを知ったのに、キリスト教社会に生まれ、信仰教育を授かったのに、イエスのことを簡単に忘れてしまうのはなぜだろうか」と教皇は問い、その原因は「慣れ・習慣」にあると指摘された。

この「慣れ」は、福音を社会学的なものに矮小化し、イエスとの個人的な絆を忘れさせてしまうと話された。

イエスはわたしたち一人ひとりに話しかけておられる。異邦人がイエスの説教を聞いてイエスに従うのに、キリスト教社会に生まれたわたしたちは、キリスト教の信仰生活が単に社会的習慣であるかのように、ただ形式的に生きていると、教皇は語られた。

「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」(ルカ10,13)というイエスの嘆きを聞きながら、わたしたちは、イエスがご自身を与えてくださったにも関わらず、表面的な生き方をし、イエスを心から追い出している、そうした自分たちの心を問わなければならない、と説かれた。

05 10月 2018, 13:31
Facebook にシェア
[`evernote` not found]

10月:教皇「教会のためにロザリオの祈りを」

2018年9月29日バチカン放送日本語課の記事より。

10月:教皇「教会のためにロザリオの祈りを」

教皇フランシスコは、10月に、ロザリオの祈りを呼びかけられた。

カトリック教会は、伝統的に10月を「ロザリオの月」としている。

バチカン広報局の声明によれば、教皇フランシスコは、10月の間、ロザリオの祈りを毎日唱え、神の民として、交わりと回心のうちに一致し、神の母と大天使ミカエルに、わたしたちを神から引き離し、わたしたち同士の間に分裂をもたらす悪から、教会を守ってくださいと祈るように招かれた。

教皇は、先日バルト3国訪問の出発前に、イエズス会士で「教皇の祈りの世界ネットワーク」の国際責任者であるフレデリック・フォルノス神父に、このロザリオの祈りをすべての信者に奨励し、そしてその祈りを聖母への古い祈りである「Sub Tuum Praesidium」と、わたしたちを悪から守り、悪との戦いにおいて助けてくださる大天使聖ミカエルへの祈りで締めくくるようにと願われた。

聖母への祈り「Sub Tuum Praesidium」は、3世紀にさかのぼる、神の母に捧げた最古のトロパリオン(典礼聖歌)で、次のように祈る。

「あなたの庇護のもとに、わたしたちは身を寄せます、神の聖なる御母よ。試練にあるわたしたちの願いを、さげすまないでください。わたしたちをすべての危険から、お救いください、栄光ある、祝福されたおとめよ」。

これに対し、大天使聖ミカエルへの祈りは、1884年、教皇レオ13世が教会を悪から守ることを願い、記したもので、次のように祈る。

「大天使聖ミカエルよ、わたしたちを闘いにおいてお守りください。よこしまな者たちと悪魔の罠から、われらを守る砦となってください。天使たちの長よ、魂たちの破滅をもくろみ、世をうつろう悪魔と悪霊たちを、神の御力をもって、地獄に落としてください。アーメン」。

29 9月 2018, 18:45
Facebook にシェア
[`evernote` not found]