カテゴリー別アーカイブ: フランシスコ教皇メッセージ

「四旬節は霊的な闘いの時」教皇、日曜正午の祈りで

2018年2月19日バチカン放送日本語課の記事より

「四旬節は霊的な闘いの時」教皇、日曜正午の祈りで

教皇フランシスコは、2月18日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

この日は時おり雨の降る不安定な空模様にも関わらず、バチカンの聖ペトロ広場には大勢の巡礼者が訪れ、教皇の言葉に耳を傾けた。

復活祭前の準備期間「四旬節」に入ってから最初の主日(日曜日)、教皇はこの日の福音朗読箇所、荒れ野で誘惑を受けるイエスのエピソード(マルコ1,12-15)をめぐり説教を行われた。

イエスはこの世における使命を準備するために荒れ野に行ったと教皇は説明。

イエスには回心の必要はないが、人間としてこの誘惑を体験する必要があった、それは自分のため、御父への従順のため、またわたしたちに誘惑に勝つ恵みを与えるためであったと話された。

教皇は、イエスの荒れ野における準備の内容は、サタンと戦うことにあったと述べつつ、わたしたちにとっても、四旬節は霊的な闘いの時であり、わたしたちは祈りを通して、神の助けと共に、日常生活の中で悪と対決し、それに勝つようにと招かれていると説かれた。

わたしたちの人生や、自分たちの周りに働く悪の存在について、教皇は、暴力や、排他主義、戦争、不正義などの見られる場所に悪の業を見ることができると話された。

荒れ野で誘惑を受けた後、イエスはすぐに「善き知らせ」、すなわち福音を述べ伝え始める。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)という、イエスの善き知らせは、人間に悔い改めと信仰を要求していると、教皇は指摘。

十分に神の方に向き合っていないわたしたちは、毎日回心し、頭と心を常に神の方に向け続ける必要があると説かれた。

回心のためには、わたしたちに道を外れさせるすべてのこと、わたしたちのエゴイズムを欺瞞に満ちた方法で惹きつける偽の価値観などを跳ね返す勇気が必要であり、同時に、主ご自身に、また主の優しさ、わたしたち一人ひとりに用意された愛のご計画に信頼することが大切と語られた。

四旬節は悔悛の時であるが、悲しみの時、喪に服す時ではないと述べた教皇は、それは、わたしたちのエゴイズムや古い人間を脱ぎ捨て、洗礼の恵みにふさわしく自分を刷新する、喜びと真摯さに満ちた努力の時であると話された。

教皇は、回心の歩みと悪に対する闘いをテーマにしたこの日、ご自身の思いを特に受刑者らに向けられた。

「主は赦すことにおいて疲れを知らない」と話す教皇は、刑務所にいるすべての受刑者に対し、いつくしみ深い主の眼差しのもとで、四旬節を自分の人生の和解と刷新の機会とするよう励ましを述べられた。

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四旬節:教皇とローマ教区司祭との集い

2018年2月16日バチカン放送日本語課の記事より

四旬節:教皇とローマ教区司祭との集い

教皇フランシスコは、「四旬節」の始まりにあたり、ローマ教区の司祭たちとの集いを持たれた。

復活祭に向けた準備期間、「四旬節」の始めに毎年行なわれるこの集いは、教皇がローマ教区の司教として、小教区の主任司祭や、教会系施設で司牧を担う司祭らとの一致を深めることを目的としている。

四旬節の開始を告げた「灰の水曜日」の翌日、2月15日(木)、教皇はローマ教区の司教座である、ラテランの聖ヨハネ大聖堂(サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ)を訪問、司祭たちと黙想を行なった。

教皇はこの中で、「司祭職と年齢」をテーマに講話され、司祭に訪れる様々な人生の時期、それぞれの年齢が持つ力とリスクについて、ご自分や他の司祭たちの経験を交えながら話された。

教皇は若い司祭たちに対し、各自の司祭職は唯一無二のものであり、身分証や指紋のように、その人特有の性格を持つと述べ、司祭職を生きる中で、自分自身のスタイルを作り上げていくよう励まされた。

また、それぞれの限界を認識し、その限界と対話することが大切と述べ、一人だけで生きようとせず、賢明な指導者を見つけることが必要と語られた。

また、40代から50代の司祭たちに対し、教皇はこの年代を「剪定と試練」の時期と指摘。

イエスとの関係において、若い時の情熱や感動がなくなるかのように思われるこの時、司祭たちにはますます指導者たちの助けと、多くの祈りが必要になってくると話された。

自分の霊的な子らが成長する一方で、自分自身の内的豊かさの減少を感じ、また多くの誘惑に晒される時でもあるが、それに負けることなく、同時にいろいろな物事に別れを告げることを学び始めることが大事になってくると説かれた。

さらに、教皇は50歳以上の司祭らに対しては、その賢明さや、柔和さ、助けを惜しまない態度を、役立てるように呼ばれている年齢と強調。

信者らは経験豊かな思いやりある聴罪司祭たちには気後れせず告解できるように、高齢の司祭たちにできることはたくさんあると述べられた。

特に、苦しむ信者に寄り添い、憐れみを示し、その話を聞く「耳による司牧」に、その経験を生かすよう勧められた。

教皇は、年上の司祭たちが若い司祭と対話する中で、若い世代が信仰のルーツを発見することを助けてあげて欲しいと願われた。

教皇はこの日、ローマ教区の司祭たちの告解を一時間以上にわたって聴かれた。

また、教皇は、当初の予定にはなかった、近くのローマ大神学院を訪問。「信頼の聖母」の礼拝堂で祈り、神学生らと昼食を共にされた。

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灰の水曜日:教皇「四旬節を『立ち止まり、見つめ、帰る』機会に」

2018年2月15日バチカン放送日本語課の記事より

灰の水曜日:教皇「四旬節を『立ち止まり、見つめ、帰る』機会に」

教皇フランシスコは、ローマの聖サビーナ教会で、「灰の水曜日」の儀式をとり行われた。

カトリック教会の典礼暦は、2月14日、「灰の水曜日」を迎えると共に、復活祭前の祈りと償いの期間である「四旬節」に入った。

「四旬節」は、公生活に入る前のキリストが荒野で40日間の断食を行ったことを思い起こすもので、復活祭までの主日(日曜日)を除く40日間、悔悛し、祈り、断食・節制・愛徳の実践などを通して、キリストの復活の記念によりよい形で与る準備をする。またこの期間は、特に受洗を前にした洗礼志願者たちの精神的準備の時である。

四旬節の初日である「灰の水曜日」には「灰の式」が行なわれる。これは、死と悔いあらための象徴である灰を、各自の額や頭に受ける儀式。この灰には、前年の復活祭直前の日曜日、「受難の主日(枝の主日)」に祝福されたオリーブや棕櫚の枝を燃やしたものが使用される。

この日の夕方、教皇はローマ市内のアベンティーノの丘に赴かれた。

教皇はまず、聖アンセルモ教会から、聖サビーナ教会に向けて、司教・司祭・修道者・信者らと宗教行列を行われた。

毎年の伝統として教皇による「灰の式」がとり行われる聖サビーナ教会は、5世紀を起源とし、ローマにおいて初期キリスト教時代のバジリカ建築を今日に伝える貴重な例の一つとなっている。

聖サビーナ教会で捧げられたミサの中で、教皇は「灰の式」をとり行い、ご自身も頭に灰を受けられた。

教皇は説教で、四旬節はわたしたちのキリスト教生活の不協和音を正し、その生活を常に新しく、喜びにあふれ、キリストの復活の希望に満ちたものにする、またとない機会であると話された。

わたしたちは様々な誘惑に囲まれており、特に日常の浮き沈みの中の、苦しみや不安定な状態に付け込む、不信や、無気力、諦めは、信者たちの魂を腐食し、麻痺させてしまうと述べられた。

四旬節はこうした誘惑を取り除き、わたしたちの心が再びイエスの心と共に鼓動するよう戻してくれるものと教皇は語られた。

教皇は四旬節に信者たちの心を温める言葉として、「立ち止まる」「見つめる」「帰る」を挙げられた。

目まぐるしさから脱し、虚しく走り回ることをやめ、「立ち止まる」ように、と教皇は諭された。

目立ちたいという欲求、人を見下す視線、何もかも知り管理したいという態度、沈黙の豊かさを忘れた騒音の前で立ち止まり、見つめ、観想することの大切さを強調された。

家庭や、子どもたち、若者、お年寄り、病者、犯した過ちから立ち直ろうとする人たちの顔を「見つめ」、その苦しみや、希望、必要を知るように、また十字架上のキリストの御顔、その広げた両腕を見つめ、観想することで、誰をも除外しない愛、希望への招きに応えるようにと教皇は説かれた。

そして、教皇は、御父の家に「帰る」ように、いつくしみにあふれた御父の腕の中に恐れることなく帰り、その癒しと和解の力に満ちた優しさを実感するようにと、皆を招かれた。

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ミサにおける「信仰宣言」と「共同祈願」を考える、教皇一般謁見

2018年2月13日バチカン放送日本語課の記事より

ミサにおける「信仰宣言」と「共同祈願」を考える、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで2月14日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

朝から小雨が降り、冷え込んだこの日、謁見はメイン会場である聖ペトロ広場と、病者や高齢者のための会場、パウロ6世ホールをビデオ中継で結んで行われた。

謁見中の教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、ミサ聖祭をテーマに、「ことばの典礼」の「福音朗読」と「説教」に続く、「信仰宣言」と「共同祈願」を考察した。

「福音朗読」と、それをふさわしい形で説明する「説教」に耳を傾けることは、神の民の霊的な権利に応え、神のみことばの宝を豊かに受け取ることであると教皇は強調。

主はミサの参加者、司牧者、信者、あらゆる年齢、状況の人に語りかけ、それぞれの心を叩き、慰め、呼びかけ、新しい命と和解を芽吹かせると話された。

それゆえ、教皇は説教の後の沈黙について、受け取ったみことばの種が心の中に落ちるのを待ち、一人ひとりがそれを考えることを可能にする時間であると述べられた。

この沈黙の後、参加者個人の信仰の答えが、「クレド」の形において「信仰宣言」される。

「信仰宣言」は、会衆全員で唱えられ、それは共に耳を傾けたみことばに対する共通の答えを象徴していると教皇は説明。

みことばを聞くことと信仰の間には生き生きとした結びつきがあり、実際、信仰とは人間の頭から生まれるのではなく、聖パウロが言うように「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(10,17)ものであると話された。

教皇はまた、信仰はみことばを聞くことによって養われ、それによって秘跡へと導かれるとも説かれた。

神のみことばに対する信者らの答えは、次に、教会と世界に必要なことを祈り求める「共同祈願」となって表現される。

助祭か朗読者によって一つずつ意向が読まれ、会衆は声を合わせ「主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください」と願う。

教皇は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15,7)というイエスの言葉を引用。

しかし、信仰の薄いわたしたちは、それを信じられるよう、主に自分の弱い信仰を助けてもらう必要があると話された。

祈りの意向において、世俗的な論理による要求や、自分のことだけを願うものは、その祈りが天まで上がっていくことはないと教皇は注意された。

神の民の祈りの意向は、教会共同体と世界の具体的な必要を代弁するものでなくてはならず、ただの形式的な祈りや、近視眼的祈りであってはならないと述べられた。

「言葉の典礼」を締めくくる「共同祈願」は、ご自分のすべての子らをいつくしまれる神の眼差しを、わたしたちも持つようにと招いていると教皇は語られた。

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教皇、メルキト・ギリシャ典礼の司教団と

2018年2月13日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、メルキト・ギリシャ典礼の司教団と

教皇フランシスコは、メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会の司教団に励ましをおくられた。

メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会の信者は、中東地域、特にシリアからレバノンにかけて多く、このほか世界の諸地域にディアスポラによる共同体がある。

同典礼の司教らは、レバノンで開催された総会の後、バチカンを訪れ、教皇との出会いやミサによってローマとの絆を新たにした。

2月12日、司教団はバチカン宮殿に教皇を訪問。

教皇は司教らへの言葉で、シリアと中東全土で人々に貴重な奉仕を続けるメルキト・ギリシャ典礼カトリック教会のために祈ると共に、よりよい生活を求めて世界各地に離散した信者らとその司牧者たちを思い起こされた。

教皇は、同教会の司教・司祭たちが自らの生き方を通して信仰を証しし、信者たちが教会の古い歴史が刻まれた土地に残ることができるよう、励まして欲しいと願われた。

2月23日に「平和のための特別な祈りと断食の日」が行なわれることに言及しながら、教皇はここ数年筆舌に尽くしがたい苦しみを体験したシリアのために祈ることを約束された。

この集いの翌日、13日朝、教皇はバチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂で、メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会のユーセフ・アブシ・アンティオキア総大司教とミサを共同司式された。

ユーセフ・アブシ総大司教(71)は、シリア・ダマスカスの出身。2017年6月、メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会のシノドスで、アンティオキアとエルサレム、東方全土における総大司教に選出された。

教皇はこのミサの意味について、一つの非常に古い教会の父としてローマを訪れたユーセフ総大司教が、ペトロ、すなわちローマ教皇を抱擁し、教皇との一致を表すためのものと説明された。

メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会の豊かな伝統、神学、典礼に触れると共に、中東で今、迫害に苦しんでいる同教会の信者たちに思いを寄せられた教皇は、このミサをこれらの兄弟たちのために捧げられた。

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世界病者の日:教皇「イエスは体と魂の真の医者」

2018年2月12日バチカン放送日本語課の記事より

世界病者の日:教皇「イエスは体と魂の真の医者」

教皇フランシスコは、バチカンで2月11日、日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

集いの説教で教皇は、典礼暦で「ルルドの聖母」を記念するこの日は、カトリック教会の「世界病者の日」であることに言及。

折りしもこの日のミサ中福音朗読された、イエスが重い皮膚病を患っている人をいやすエピソード(マルコ1,40-45)を取り上げながら、神なる御父が人類を癒すためにこの世に送られた「体と魂の真の医者」、イエスを観想するよう招かれた。

当時の社会で重い皮膚を患った人は、神と人の前で不浄な者と考えられていたと教皇は説明され、それゆえにこの人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(1,40)とイエスに懇願したと話された。

その人の願いを聞いたイエスは「深く憐れんだ」(参照:1,41)。

イエスのこの内的反応に注意を向けられた教皇は、キリストのみ業とキリストご自身を理解するためには、この憐憫といつくしみでいっぱいのその御心に入らなければならないと語られた。

深い憐れみに促され、イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」、「よろしい。清くなれ」(1,41)と言われた。

教皇は、重い皮膚病を患う人に触れることは、モーセの律法では絶対に禁じられていただけに、イエスがこの人に触れたのは驚くべきことであったと指摘。

重い皮膚病患者に触れることは、触れた人の内部、精神までその状態が伝わると考えられていたが、このエピソードでは、重い皮膚病の人からイエスにではなく、イエスから皮膚病の人に清さが伝わっていると話された。

病気は誰でもなり得るものであるが、病気の人と神との関係を何者も阻むことはできない、むしろ病者は神とより一致した者となると教皇は説かれた。

一方で、人間に穢れを与えるもの、それは罪であると述べた教皇は、利己主義、傲慢、腐敗した世界に入ること、これこそがイエスに願い、清められるべき心の病であると強調された。

教皇は、一人ひとりが自分の心をのぞき、自身の清くないところ、罪を見つめ、イエスに「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と心の声を上げて願うよう、信者らを招かれた。

巡礼者への挨拶で、教皇はこの日からカトリック教会の「世界青年の日」(ワールドユースデー)2019年パナマ大会への申し込みが始まったことを紹介。

ご自分もまた、代表の二人の若者の前で、タブレットからインターネット経由で参加申し込みをされた教皇は、世界中の若者にも、この機会にパナマで、あるいは地元の共同体で、恵みと兄弟愛のこのイベントに信仰と情熱をもって参加して欲しいと呼びかけられた。

さらに、教皇は2月15日に旧正月を祝うすべての人々、家庭にお祝いを述べられた。

そして、一人ひとりが受容され、守られ、成長できる社会づくりに貢献しながら、皆が連帯と、兄弟愛、善への望みを生きることができるよう希望された教皇は、平和の恵みを祈りつつ、祝福をおくられた。

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教皇、人身取引の原因となる社会の中の共犯性を指摘

2018年2月9日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、人身取引の原因となる社会の中の共犯性を指摘

教皇フランシスコは、人身取引に反対し、被害者への支援を目指す会議の参加者らとお会いになった。

「サンタ・マルタ・グループ」と呼ばれるこの会議は、2月8日に記念されたカトリック教会の「人身取引反対のための祈りと考察の日」に合わせ、バチカンで2日間の日程で開催された。

今回で5回目となるこの会議には、人身取引の問題を扱う警察関係者・研究者・政治家、被害者に司牧的支援を行なう教会関係者らが参加。

今年のテーマとして、世界各地に様々な形ではびこる人身取引と奴隷化の現状を展望した。

教皇は出席者への言葉で、会議で明らかになったように、現代の新しい奴隷制度は、わたしたちの社会の最も豊かな内部にまで広がっていることに驚かざるを得ないと話された。

「お前の兄弟はどこにいるのか」(参照:創世記4,9)という神のカインに対する叫びは、特に性的取引や、弱い立場の人々や子どもたちへの搾取をはびこらせる原因となる、社会の中の様々な形の共犯性を、わたしたちに真剣に糾明するよう呼びかけていると教皇は述べた。

人身取引との闘いは、犯罪網を壊すという目標のうちに行なわれるが、教皇は、そのためにはより多くの分野が協力し合い、コミュニケーション技術や手段の責任ある使用や、利益よりも人間を大切にする経済倫理の研究が必要と指摘された。

また、教皇は、今回の会議が人身取引の被害者の社会復帰と尊厳の復活に役立つものとなることを願われた。

苦しむ人にいつくしみの香油をもたらすあらゆる努力は、社会全体の再生と刷新に必要な一歩と述べた教皇は、人身取引に対する参加者らの日頃の取り組みに感謝を表された。

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人身取引反対のための祈りと考察の日

2018年2月8日バチカン放送日本語課の記事より

人身取引反対のための祈りと考察の日

典礼暦で聖ジュゼッピーナ・バキータを記念した2月8日、カトリック教会の「人身取引反対のための祈りと考察の日」が行われた。

聖ジュゼッピーナ・バキータ(スーダン1869-イタリア1947)は、7歳の時にさらわれ、奴隷商人に売られた。壮絶な奴隷生活は1889年、20歳の時まで続いた。自由の身となった後、カノッサ会の修道女となった。人生の中でくぐり抜けてきた数々の苦難と試練にも関わらず、優しさ、明るさ、純真を保ち、神の大きな愛に感謝して生きる姿は多くの人を感化した。

「人身取引反対のための祈りと考察の日」の前日7日、教皇フランシスコは、バチカンでの一般謁見で、今年のテーマなどに触れ、次のように話された。

「2月8日、聖ジュゼッピーナ・バキータの日に、人身取引反対のための祈りと考察の日が記念されます。

今年は、『人身取引のない移民。自由にイエス、人身取引にノーを!』をテーマにしています。

正常なルートに関する可能性を持たない移民たちは、冒険的な別の方法を取ることを決意します。

そこではしばしば、あらゆる種類の悪用、搾取、奴隷化が人々を待ち受けています。

人身売買を目的とする犯罪組織は、自分たちの犠牲者を移民や難民の間に隠すために、この移民ルートを使います。

人身取引を防ぎ、犠牲者を保護し、支援するために、力を合わせるよう市民や様々な機関に呼びかけたいと思います。

主が人身取引に携わる者を回心させるように、そしてこの恥ずべき傷のために苦しむ人々に自由を再び獲得する希望をくださるように、皆で祈りましょう。」

この記念日を機会に、バチカンでは人身取引をテーマにした会議が8日・9日に開催される。

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ミサ中の福音朗読と説教について考察、教皇一般謁見

2018年2月7日バチカン放送日本語課の記事より

ミサ中の福音朗読と説教について考察、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、2月7日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇はミサ聖祭をめぐる一連のカテケーシス(教会の教えの解説)として、この日は「ことばの典礼」中の「福音朗読」と「説教」について考察された。

神とその民の対話は「ことばの典礼」を通して育まれ、それは福音の告知で頂点に達する。

福音書朗読の前のアレルヤ唱、または四旬節の詠唱によって、会衆は主を迎え、主に挨拶し、そして主は福音を通して話されると、教皇はアレルヤ唱が 果たす役割を示された。

キリストの神秘が聖書の啓示全体を照らすように、「ことばの典礼」において、福音書は、先立って朗読された旧・新の聖書の意味を理解する光となると教皇は説明。

そのために、典礼自体も、福音朗読と他の朗読を区別するために、福音を特別な栄誉と崇敬で取り囲んでいると話された。

そして、そのしるしとして、福音の朗読者は叙階された者に限られること、朗読者は最後に福音書に接吻すること、会衆は福音朗読の際、立ち上がり、額と口と胸に十字を切ること、ろうそくや献香によって福音朗読を通して語られるキリストへの栄誉を表すことなどを挙げられた。

教皇は、わたしたちが立ち上がるのは、福音の朗読を聞くためではなく、わたしたちに話しかけるキリストに対してであり、主とのこの直接の対話のために、わたしたちは注意を傾けなければならないと教えられた。

ミサでは、話の筋を知るために福音を読むのではなく、イエスの言われたこと、なさったことを認識するために、その生きた言葉に耳を傾けるのであると教皇は述べられた。

「キリストの口とは、福音書である」という聖アウグスティヌスの言葉を引用された教皇は、典礼の中でキリストが福音を告げておられるならば、ミサに与るわたしたちはそれに答えなければならないと話された。

次に、教皇は、キリストはご自分のメッセージが届くよう、司祭の「説教」も利用されると述べた。

ミサの説教は、適当に場をしのぐための話でも、会議や、授業でもない、それは主とその民との間に始まった対話を再び取り上げながら、それが生活の中で完成されることを目指すものと、教皇は話された。

教皇は「真の聖書注解は、わたしたちの聖なる生活である」と強調。

聖母や聖人たちにとってそうであったように、主のみ言葉はわたしたちの中で、業となって形をとることで、その目的を達すると話された。

説教を行う者は、その役割を良く果たす必要があり、一方で、説教を聞く者たちも、心を整え、注意を払わなければならないと教皇は述べた。

教皇は、説教者に、自分のための説教ではなく、イエスの代弁者としてイエスの言葉を説教するよう願われた。

そして、説教は、祈りとみ言葉の勉強のもとによく準備された、明解で、短いものでなくてはならず、10分を超えないことが望ましいと話された。

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教皇「平昌オリンピックが友情とスポーツの祭典となるように」

2018年2月7日バチカン放送日本語課の記事より

教皇「平昌オリンピックが友情とスポーツの祭典となるように」

教皇フランシスコは、まもなく開幕する平昌オリンピックが、友情とスポーツの祭典となるようアピールされた。

2月7日(水)、バチカンで行われた一般謁見の席で、教皇は9日(金)より韓国の平昌で92カ国参加のもと開催される第23回オリンピック冬季競技大会に言及。

オリンピック期間中の停戦の伝統は、今年は特別な重要性を帯びていると述べた教皇は、韓国と北朝鮮によって、一つの朝鮮半島旗のもとでの入場行進や、合同チームでの競技参加が行なわれることは、対話と相互尊重によって紛争の平和的解決は可能であるとの希望を、スポーツを通して教えてくれるものと話された。

教皇は、国際オリンピック委員会と、平昌オリンピックに参加するすべての選手たち、そして朝鮮半島の当局と国民に挨拶をおくり、ご自身の祈りを約束されると共に、出会いと平和の推進に役立つあらゆる取り組みに対する、教皇庁の支援を改めて表明された。

「このオリンピックが、友情とスポーツの偉大な祭典となるように」と、教皇は神の祝福と保護を祈られた。

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