カテゴリー別アーカイブ: フランシスコ教皇メッセージ

「キリスト教生活は、寛大な御父への感謝の答え」教皇一般謁見

2018年6月27日バチカン放送日本語課の記事より。

「キリスト教生活は、寛大な御父への感謝の答え」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで6月27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「十戒」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)で、「十戒」の冒頭の部分を考察された。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20,2)。

「十戒」はこのような神の言葉で始まる。

教皇は、神がまずご自身について宣言し、その救いの業を明らかにしてから、「十戒」の具体的な内容を示していることに注目。

これは、神が最初に救いの業を行うことで、民の信頼を求められるためであり、いわば、「十戒」は神がその寛大さを示すことから始まると述べられた。

「わたしは主、あなたの神」という宣言について教皇は、神はよそよそしい他人のような存在ではなく、まさに「あなたの神」であり、その愛は「十戒」全体を照らすものと語った。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15,9)とイエスの言葉にあるように、キリストは御父から愛され、その同じ愛をもってわたしたちを愛される。キリストはご自分からではなく、御父から出発されていると教皇は述べられた。

わたしたちの行いがしばしば失敗するのは、その行いが自分自身から出て、感謝から出ていないからであると教皇は述べ、「自分から出発する人は、自分自身にしかたどり着けない」と話された。

キリスト教的生活は、何よりも、寛大な御父に対する感謝の答えであり、あれをしなくては、これをしなくてはと、義務だけにとらわれているキリスト者は、その義務の基礎にある、神なる御父の愛の体験が欠けていることを表している、と注意された。

「関係の始めから、ただ掟だけを押し付けることは、信仰の歩みの助けにはならない。救いではなく、義務や課題から出発するならば、どうして若い人はキリスト教徒になることを望むだろうか」と教皇は問われた。

「キリスト者として成長するには、意志の力だけでは足りない。救いを受け入れ、神に愛される体験が必要」と強調された。

神に従うには、神がわたしたちのためにしてくださったことを思い出すことが大切と教皇は述べ、自分に対する神の素晴らしい業と救いについて、各自が思いを巡らせるよう勧められた。

義務感だけに縛られ、神の解放の真の体験を知らない人々に対し、教皇は、イスラエルの人々のうめきと叫びを聞いた神が、人々を顧み、御心に留められた(参照:出エジプト2,23-25)ように、自分から神に救いを求める叫びを上げるようにと説かれた。

「神はわたしたちの鎖を断ち切るために、助けを求める叫びを待っておられる。神は、わたしたちが虐げられることなく、自由と感謝のうちに生きるようにと、わたしたちを召された」と、教皇は神がわたしたちに与える限りない恵みを示された。

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「聖なる命を守ろう」教皇、生命アカデミー関係者に

2018年6月25日バチカン放送日本語課の記事より。

「聖なる命を守ろう」教皇、生命アカデミー関係者に

教皇フランシスコは、バチカンの生命アカデミーの関係者とお会いになった。

教皇庁立生命アカデミー(議長:ヴィンチェンツォ・パイヤ大司教)は、このたびバチカンで、「生まれた時は平等?グローバルな責任」をテーマに、第24回定例総会を開催した。

教皇は総会参加者への言葉で、人生の素晴らしい仕事は、新しい人間を生み出すこと、精神性と創造性をもって教育すること、家庭や共同体において最初に愛を学ぶこと、弱さや傷を世話すること、そしてイエス・キリストにおいて神の子として新たに命を受けること、と話された。

教皇は、命をあきらめることは、貧しい人を飢餓に、迫害される人を戦争に、高齢者を疎外に追いやることであり、死に手を貸すという罪であると指摘。

悪は、死はすべての終わりであり、人はこの世に偶然生まれ、無に終わるよう運命づけられていると、わたしたちを説得しようとすると話された。

まだ生まれる前の無実の命を、毅然とした態度で、情熱的に守らなければならないと述べた教皇は、そこには聖なる人間の命がかかっていると呼びかけられた。

同時に、教皇は、貧しく生まれた命もまた聖なるものと強調。

貧しい人々を、貧困や、疎外、人身取引、病者や高齢者の隠された安楽死、新しい形の隷属、あらゆる形の切り捨てから、守る必要を説かれた。

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「信仰を喜びと、驚き、感謝をもって生きる」教皇、日曜正午の集い

2018年6月25日バチカン放送日本語課の記事より。

「信仰を喜びと、驚き、感謝をもって生きる」教皇、日曜正午の集い

教皇フランシスコは、バチカンで6月24日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

この日は、カトリック教会の典礼暦で、「洗礼者聖ヨハネの誕生」を祝った。

教皇は集いの説教で、ルカ福音書に記される、洗礼者聖ヨハネの誕生のエピソードを振り返った。

ザカリアと妻エリサベトには子どもがなく、二人ともすでに年をとっていた。教皇は、このために二人は疎外感と卑しめを感じ、失望を味わっていたと述べられた。

ザカリアが天使から、妻エリサベトが男の子を産む、と告げられた時(参照:ルカ1,13)、彼はにわかに信じることができなかった。それゆえに、主はザカリアが、妻が子を産むまでの間、話すことができないようにされた(参照:ルカ1,20)。

神はわたしたちの論理や人間的限界を超越した方と述べた教皇は、神に信頼し、その神秘を前に沈黙し、歴史の中で啓示され、時に人間の想像を超えるその御業を謙遜のうちに観想しなくてはならないと話された。

エリサベトとザカリアは「神にできないことは何一つない」(ルカ1,37)ということを体験し、大きな喜びに満たされた。

やがて、月が満ち、男の子を産んだエリサベトは、名付けの段階になって、「ヨハネ」という、その一族の伝統とは異なる名前を選んだ。

教皇は、「神は恵みを賜れた」という、その名前の意味を説明された。そして、この男の子はやがて、謙虚な信仰をもって救いを待ち望む貧しい人々のために、神の恵みを告げ、証しする者となるだろうと語られた。

口がきけなかったザカリアは、「ヨハネ」という名を確認し、人々に示すために、これを板に書いた。そのとたん、ザカリアは口を開き、舌がほどけ、神を賛美した。(ルカ1,64)

教皇は、洗礼者ヨハネの誕生の出来事全体が、喜びと、驚き、感謝に満ちていることを指摘。

人々もまた、神への畏れを感じ、ヨハネの誕生にまつわる出来事を話題にしながら、「この子はどんな人になるのだろうか」と言ったように、神の民は、信仰を喜びと、驚き、感謝をもって生きるよう召されていると述べられた。

教皇は、わたしたちも、自分たちの信仰がいつも同じで平板な信仰であるのか、それとも神の御業を驚きを持って見つめ、慰めや感謝を感じ得る信仰であるのかを、問い直さなくてはならないと呼びかけられた。

巡礼者への挨拶で教皇は、前日パラグアイの首都アスンシオンで、女子跣足カルメル修道会の修道女、ご聖体のイエスのマリア・フェリシア(1925-1959)の列福式がとり行われたことを報告。

前世紀、カトリック・アクションに熱心に参加し、お年寄りや病者、受刑者に奉仕し、使徒職の豊かな体験と日々のミサに支えられ、やがて奉献生活への召し出しに答え、34歳で帰天した同修道女の生涯を紹介された。

教皇はこの若き福者の信仰の証しが、パラグアイをはじめ、すべての若者たちに、寛大さと、温和さ、喜びをもって生きることへの招きとなるよう願われた。

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「主の祈りにある、キリスト者の根源」教皇、ジュネーブでミサ

2018年6月21日バチカン放送日本語課の記事より。

「主の祈りにある、キリスト者の根源」教皇、ジュネーブでミサ

教皇フランシスコは、訪問先のジュネーブで、スイスのカトリック信者らと共にミサを捧げられた。

教皇は、6月21日、世界教会協議会(WCC)の創設70周年を機会にジュネーブを訪れた。

ジュネーブ市内のエキュメニカル・センターで、キリスト教諸教会の代表らとの祈りの集いや、WCC関係者との出会いを持たれた教皇は、同日夕方、見本市会場・パレクスポで、ミサを司式された。

教皇ミサには、スイス全土からおよそ4万人の信者が参加した。

ミサ中の福音朗読箇所、マタイ福音書(6,7-15)の、イエスが弟子たちに祈りを教える場面を取り上げて説教を行われた教皇は、「御父」「パン」「赦し」の3つの言葉を、わたしたちを信仰の中心に導くものとして示された。

イエスが弟子たちに教えた祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけで始まる。

教皇は、神は無限で永遠であるが、まず第一に「父」であると強調。「父よ」という呼びかけは、神の心に入るための鍵であり、「父よ」と言うだけで、わたしたちは「キリスト教という言語」で祈ることになると話された。

「主の祈り」は、「愛されている子たち」であるという、わたしたちのアイデンティティーを表す「式文」であると教皇は語った。

「主の祈り」を唱えるたびに、わたしたちは自分たちの根源を取り戻すことができる。これはルーツを失った今日の社会において、わたしたちに必要なことである、と話された。

「父」がいるところでは、誰もが除外されないと教皇は述べ、子であるわたしたちは、この「家族」を大切にし、兄弟たちと互いに愛し合わなければならないと説かれた。

イエスは「わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください」と父に願うようにと言われる。願うのは、その日に必要な「糧=パン」だけであり、それ以上のものは望まない。

教皇は、日ごとの糧を父に祈り求めることは、すべての人に必要な糧がいきわたるように願うと同時に、「父よ、簡素な生活ができるよう助けてください」ということでもある、と指摘された。

わたしたちが忘れてはならないことは、日ごとの糧(パン)とは、すなわちイエスであるということ、と教皇は述べ、イエスなしでは、わたしたちは何もできない(参照:ヨハネ15,5)と話された。

「主の祈り」の内容の中で、イエスが唯一コメントを加えているのは、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という部分であること(参照:マタイ6,14-15)に教皇は注目。

「赦し」は、「主の祈り」の中でも動かしがたい要素であり、神はわたしたちの心をあらゆる罪から解放されるが、わたしたちもまた、絶えず人を赦し続けるようにと望んでおられると話された。

「赦しは、人を新たにし、奇跡を起こす」と教皇は述べ、イエスの赦しを体験し、イエスの群れの牧者となったペトロ、ステファノの赦しを目の当たりにし、回心したパウロらを思い起こされた。

教皇は「わたしたちは父から赦され、兄弟たちを愛することで、新しい人間に生まれ変わる。赦しは、悪を善に変える」と、赦しの力を説かれた。

こうして、教皇は一日にわたる、ジュネーブ訪問を終えられた。

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教皇、ジュネーブを訪問、世界教会協議会創設70周年に

2018年6月21日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、ジュネーブを訪問、世界教会協議会創設70周年に

教皇フランシスコは、世界教会協議会の創設70周年を機会にジュネーブを訪れ、キリスト教諸教会関係者と共にエキュメニカルな祈りの集いに参加された。

6月21日、教皇は「エキュメニカルな巡礼の旅」として、世界教会協議会(WCC)の本部があるスイス・ジュネーブを訪問された。

同日午前、教皇は到着したジュネーブ国際空港で、アラン・ベルセ連邦大統領の出迎えを受け、歓迎式に臨まれた。

式典の後、教皇は空港内でベルセ大統領と個人会談を持たれた。

ジュネーブ市内のエキュメニカル・センターを訪れた教皇は、世界教会協議会のオラフ・フィクセ・トヴェイト総幹事をはじめ、常議員会、中央委員会のメンバーらに迎えられた。

センター内のホールで行われた祈りには、WCCに加盟する諸教会の代表者ら、およそ230名が参加。回心や、和解、一致を祈り、聖歌を唱和した。また、ここでは、使徒聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」(5,13-16. 22-26)が朗読された。

教皇は関係者への挨拶で、「霊の導きに従って歩みなさい」(参照:ガラテヤ5,16および 5,25)と繰り返し招く、使徒聖パウロの言葉を取り上げられた。

「人間は歩く存在である」と述べた教皇は、母の胎から出て、それぞれの年齢を通過し、やがては両親の家を後にし、この世での命の終わりまで歩む、こうした人間の一生を描きながら、「歩みとは、人生の隠喩であり、人生はそのままでは満たされず、何かその以上のものを常に求めている」と話された。

しかし、同時に、「歩みには努力が必要」と教皇は語り、目的に向かうために他の多くの道をあきらめ、迷子にならないために記憶をよみがえらせ、謙遜に後戻りし、旅を共にする人々を気遣うその歩みとは、いわば絶えざる自己の回心であると述べられた。

神がアブラムに、生まれ故郷を離れ、ご自身に信頼して歩むように召されたように、モーセ、ペトロ、パウロも、そして主の友であったすべての人々は歩みのうちに生きたことを思い起こされた。

教皇は、歩む存在である人間が、自分自身の中に閉じこもっていることは、召命に反することと述べ、「霊の導きに従って歩む」必要を強調。

そして、「霊の導きに従うとは、この世の虚栄をはね返すことであり、奉仕の論理を選びとり、赦しにおいて前進すること」と述べた。

過去の歴史におけるキリスト者たちの分裂を振り返った教皇は、その分裂の原因を、共同体内に入り込んだ虚栄のメンタリティー、世俗の論理のためと指摘。

イエス・キリストの代わりに自分たちの利害を優先させ、霊の導きの代わりに肉に従った結果、そこに分裂が生まれるのは容易であったと話された。

世界教会協議会がこれまで大きく貢献してきたエキュメニカル運動は、聖霊の恵みによって立ち上がったものと教皇は述べ、イエスの御旨に従い、霊の導きのもとに歩み始めたエキュメニズムにおいて、自己本位な態度に陥ることがあってはならないと語られた。

エキュメニズムのこうした歩みは、自分たちの共同体の固有の関心を守らないために、この世の目には、骨折り損のように見えるかもしれないと問いつつ、教皇はエキュメニズムとはいわば「損失の中の大事業」だが、その損失とは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9,24)とイエスが説いた、福音的な意味での損失であると述べられた。

エキュメニズムの歩みの明確な目的、それは「一致」であると述べた教皇は、その反対は争いや破壊に導く、分裂の道であると話された。

「主はわたしたちを、平和に導く一致の道へと招き続ける」と、教皇は分裂に満ちた世界にキリスト者が一致を示す必要を呼びかけられた。

エキュメニカルな祈りの集いの後、教皇はボセーのエキュメニカル研究所でWCC代表らと昼食を共にされた。

続いて、教皇は再びエキュメニカル・センターで、WCC関係者らとのエキュメニカルな交流を行われた。

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一般謁見:教皇「神は主人ではなく、父である」

2018年6月20日バチカン放送日本語課の記事より。

一般謁見:教皇「神は主人ではなく、父である」

教皇フランシスコは、バチカンで6月20日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

6月下旬を迎えたローマは、好天に恵まれ、気温の高い日々が続いている。

この日の一般謁見は、メイン会場の聖ペトロ広場と、屋内会場であるパウロ6世ホールの、2か所で行われた。教皇は謁見のはじめにパウロ6世ホールを訪れ、お年寄りや病者らに挨拶と祝福をおくられた。

謁見中、教皇は先週から始まった「十戒」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)で、掟を与える神と、掟を受け取る人間との関係を考察された。

聖書において、掟は独立した存在ではなく、一つの関わりにおいて存在するものである。その関わりとは、神と神の民との契約の関係であると教皇は話された。

「出エジプト記」の「神はすべての言葉を告げられた」(20章1節)という箇所に注目された教皇は、ここになぜ「すべての掟」ではなく、「すべての言葉」と記されているのかを考えられた。

ユダヤ教の伝統では、「十戒」は「十の言葉」と呼ばれていると教皇は解説。

「掟・命令」と「言葉」との違いを問いながら、前者が対話を必要としないのに対し、後者は対話的な関係に不可欠なものであると述べられた。

また、教皇は「言葉」の重要性を示す上で、父なる神は言葉を通して創造の業を行われたこと、御子イエスは人となられた御言葉であることなどを挙げられた。

「創世記」で、男と女が誘惑にそそのかされて、神から食べてはいけないと言われた木の果実を食べてしまったエピソードを思い起こされた教皇は、それを食べるなと神が言われたのは、神が人間に与えた最初の規則であったといえると指摘。

神のように善悪を知るものになるという、その木の実を食べることを神が禁じたのは、独裁者の押しつけではなく、人間を自己破壊から守るための、父親が小さな子に接するような、神の配慮であったにもかかわらず、蛇にだまされた男女は、神の愛の言葉を、神の嫉妬と独占欲による命令と解釈し、その実を食べることになってしまったと、語られた。

「神はわたしに何かを押し付けようとしているのか」、それとも「神はわたしを大切に心にかけているのか」、人間はこの分かれ道に立たされていると教皇は述べ、それは、「戒律は単なる掟なのか、それともわたしをいたわる言葉なのか」、「神は主人なのか、それとも父なのか」という問いでもあると話された。

「聖霊は子たちの霊であり、イエスの霊である。奴隷たちの霊であるならば、掟を抑圧としてしか受け取らざるを得ない。それがもたらす結果は、義務と権利だけでできた生活、あるいは激しい拒絶反応である。」

「キリスト教のすべては、文字で書かれた掟から、命を与える霊への移行である(参照:2コリント3,6-17)。イエスは御父の御言葉であり、御父の裁きではない。」

「十戒はわたしたちを解放する御父の言葉であるがゆえに、それは解放に向けての歩みである。世が必要とするのは、戒律主義ではなく、子の心を持ったキリスト者たちである。」

教皇はこのように話された。

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「信仰をもって神のご計画を受け入れる」教皇、日曜正午の集いで

2018年6月18日バチカン放送日本語課の記事より。

「信仰をもって神のご計画を受け入れる」教皇、日曜正午の集いで

教皇フランシスコは、バチカンで6月17日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、イエスが神の国を「成長する種」や「からし種」にたとえて説明するエピソード(マルコ4,26-34)を取り上げられた。

このエピソードで、イエスは神の国をまず「成長する種」にたとえる。

土に蒔かれた種は、人には計り知れない神秘で、芽を出して成長し、穂を豊かに実らせ、実の成熟と共に収穫の時を迎える。

教皇はこのたとえに、イエスの言葉と行いを介して告げられた神の国は、世界という畑に種のように入り込み、人間では理解できない力と法則をもって、自ら育ち成長する、というメッセージを読み取られた。

そして、神の国が歴史の中で成長するのは、人間の業によるものではなく、何よりも神の力と寛大さによるものであると話された。

すべての子らに正義と兄弟愛と平和を望まれる神の御旨に逆行するような出来事が、歴史においてしばしばあったとしても、わたしたちは神の救いに信頼し、この時期を試練と希望の時、収穫を心して待つ季節として生きるべきと教皇は語られた。

次にイエスは神の国を「からし種」にたとえる。からし種は非常に小さいものであるが、蒔くと、畑の中で一番大きいものとなる。

教皇は、からし種の驚きに満ちたその成長は、予想できない神の計らいを表すものであり、主はわたしたちが自分の計画や計算、見通しを超越させる信仰の態度をもって、神のご計画を寛大に受け入れるよう励ましていると述べられた。

教会の真のミッションとは、成功や結果を認められることにあるのではなく、勇気と、信頼、謙遜をもって前進することにある、と教皇は強調。

小さく弱い道具であっても、神の御手の中で、その恵みによって、大きな技を成し遂げ、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ローマ14,17)である、神の国を発展させることができると説かれた。

集いの中で教皇は、前日6月16日、ベネズエラのカラカスで、マザー・マリア・カルメン・レンディレス・マルティネス(1903-1977)の列福式がとり行われたことを報告。

前世紀、カラカスにおいて「ベネズエラのイエスの侍女会」を創立し、姉妹たちと共に愛をもって小教区や学校で奉仕し、貧しい人々に寄り添ったその生涯を紹介された。

教皇は、イエスの忠実な弟子として生きた同福者を与えてくださった神に感謝し、福者の取り次ぎをもってベネズエラ国民のために祈られた。

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教皇、イエメンの和平のための努力を呼びかけ

2018年6月18日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、イエメンの和平のための努力を呼びかけ

教皇フランシスコは、イエメンの和平のため、国際社会に努力を呼びかけられた。

6月17日、教皇はバチカンで行われた日曜正午の祈りの集いで、長引く紛争のために厳しい試練を生きるイエメンの人々に思いを寄せられた。

イエメンでは、内戦の激化と共に、食糧不足による飢餓をはじめ、人道的状況がいっそう深刻化している。

教皇は国際社会に対し、この人道的悲劇を悪化させないために、紛争の当事者らを一刻も早く和平の対話につかせるあらゆる努力を惜しまないようアピールされた。

教皇はイエメンの人々ために聖母の取り次ぎをもって祈られた。

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教皇、「世界難民の日」に向けてアピール

2018年6月18日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、「世界難民の日」に向けてアピール

教皇フランシスコは、「世界難民の日」に向けて、難民への関心をアピールされた。

6月17日(日)、教皇はバチカンでの正午の祈りの集いで、今月20日(水)に記念される国連の「世界難民の日」に触れられた。

教皇は、これを機会に、紛争や迫害のために故郷から逃げざるを得ない人々の大きな不安と苦しみに注意を向けるよう願われた。

今年の「世界難民の日」は、安全で秩序ある統制のとれた移民政策のために、年内に移民に関する国際合意を策定するための協議が政府間で行われている時に記念されることを教皇は指摘。

このプロセスに関わる国々が、責任と人間性をもって、自国を強制的に追われた人々の支援と保護を保証するための合意に至ることを希望された。

また、難民の人々が受け入れ先の社会により溶け込めるように、わたしたちそれぞれが難民らに寄り添い、出会いの機会を見つけ、彼らの貢献を知ることができるようにと望まれた。

教皇は、この出会いと相互理解と支援の中にこそ、多くの問題の解決を見つけることができるだろうと話された。

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教皇フランシスコ:「 受け入れ、知り、理解しあうために、他者に向かって歩むことが大切」

2018年6月14日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇フランシスコ:「 受け入れ、知り、理解しあうために、他者に向かって歩むことが大切」

バチカン聖座とメキシコ間の外交関係締結25周年を記念して、国際的移民問題についての懇談会がバチカンとメキシコの間で開催された。聖座は社会から見放された貧しい人々のための働きを続行するために両国の絆をますます強めていくためのよい機会だとさらなる両国の協力を強く訴えた。

教皇フランシスコはそのメッセージの中で「今日、各自のメンタリティーを根本的に変革する必要があります。異なる人々や他人を自分たちの安全を脅かすものだという考え方から、かれらの異なる人生経験や別世界の人々の持つ様々な価値観が自分たちの既成社会により豊かな富をもたらすものなのだという考え方に変えていく必要があります。ですからここで一人一人が真剣に考え、受け取るべき姿勢は何よりも他者を知り理解するために、排除するのではなくかえって積極的に受け入れていこうとする態度です」と開かれた心とメンタリティーの必要性を強調している。

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