月別アーカイブ: 2015年12月

イエスの幼年期の観想へと招く、教皇一般謁見

    2015年12月30日バチカン放送日本語課の記事より。

イエスの幼年期の観想へと招く、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで12月30日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

今年最後の一般謁見で、教皇は「いつくしみの聖年における降誕祭」をテーマに講話された。

クリスマスにプレゼピオ(イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)を作った家庭は多いでしょうと教皇は述べつつ、幼子イエスに対する人々の崇敬、特に多くの聖人たちの幼子イエスに結びついた祈りと霊性を指摘。中でもカルメル会修道女・教会博士である、幼いイエスの聖テレジア(リジューのテレーズ)の「霊的幼児の道」を思い起こされた。

人となられた神の御子、イエス・キリストの幼児・少年時代は、わたしたちの信仰にとって特別な意味を持つものであり、キリストの十字架上の死と復活が贖い主としての愛の最高の表現であるとしても、イエスの地上の生涯全体が啓示であり、教えであることを忘れてはならないと教皇は話された。

教皇は、わたしたちが信仰のうちに成長するためには、しばしばイエスの幼年期を観想する必要があるとしながらも、イエスの子ども時代についての福音書の記述はそれほど多くはなく、それらは、生後八日にイエスと名づけられたこと、その後神殿で捧げられたこと (ルカ2,21-28)、東方の学者たちの訪問と、それに続くエジプトへの逃避(マタイ2,1-23)、12歳の時にマリアとヨセフと共にエルサレムに巡礼した際のことなどであると指摘された。

このようにイエスの幼年期についてわたしたちは多くを知らないが、子どもたちの生活を観察することで、幼子イエスから多くを学ぶことができると教皇は述べられた。

子どもたちは自分たちへの関心を求め、守られていることを感じる必要がある。教皇は、わたしたちもまた幼子イエスを生活の中心に据えて守る責任、さらに幼子イエスがわたしたちと共にいるという喜びと愛を伝え、幼子を微笑ませる必要があると話された。

また、子どもたちは遊ぶことが好きだが、子どもたちを遊ばせるには、自分の論理を捨てて彼らの世界に入っていかなければならない。教皇は、幼子イエスの前でも、わたしたちは自分は自身の思い通りにできるという思いを捨て、真の自由を受け入れるよう招かれていると説かれた。

「幼子イエスは、わたしたちを救いに来られた神の御子、わたしたちに愛といつくしみに満ちた御父の御顔を示してくださる方です」と述べた教皇は、「わたしたちも愛と平安の源である幼子イエスを腕に抱き、イエスにお仕えしていきましょう」と呼びかけられた。

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[小郡]主の降誕第7日(木)のオミリア(2015.12.31.)

聖クララ会修道院の聖堂で行われたミサのオミリア[5分]2015.12.31.Thurs.←をクリックして聴くことができます。

《福音》ヨハネ1・1-18 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 

プロローグ/イエスは「神のことば」—見えない神を身をもって告げる方

 はじめから、「ことば」である方は、いた。「ことば」である方は、神のもとにいた。「ことば」である方は、神であった。この方は、はじめから神のもとにいた。すべてのことは、この方をとおして、起こった。起こったできごとで、この方ぬきに起こったものは、なに一つなかった。この方には、いのちがあった。このいのちこそ、人類の光であった。その光は、暗やみの中で輝いている。暗やみが、その光をしのぐことはなかった。一人の人が現われた。神からつかわされた人で、名をヨハネといった。このヨハネは、証しするために来た。光について証しし、その光によって、みなが信頼をもってあゆみを起こすようになるためであった。ヨハネは、光ではなく、光について証しする人だった。

 その光は、本物だった。その光は、この世に来ており、すべての人を照らしている。その方は、この世に、いた。この世は、その方によって成り立っているのに、この世はその方を認めなかった。その方は、自分の家に来たのに、家のものたちは、その方を迎え入れなかった。その方は、だれであれ受け入れてくれた人に、すなわち、その方を信頼してあゆみを起こす人たちに、神の子どもとなる資格を与えた。その人たちは、血(民族)のゆえでなく、肉(世俗)の評価のゆえでもなく、また、男(男性優位)の意志によるでもなく、神によって生まれるのである。「ことば」である方は、生身の人間となって わたしたちのあいだに住まいをさだめていた。その方の輝きを、わたしたちは見きわめた。それは父のかたわらに立つ一人子の、好意と真実いっぱいの輝きであった。

 ヨハネは、その方について証しし、声をはってこう言った。「『わたしのあとから来られる方は、わたしの先を行かれる。わたしより前からおられる方だから』と、わたしが言っていたのは、この方のことだった」。

 わたしたちはみな、この方の内に満ちているものを、好意につぐ好意として、いただいた。モーセをとおして律法が与えられ、「キリスト」であるイエスをとおして 好意と真実が現されたのである。いまだかつて、神を見た人はいない。父のふところにいるひとり子である神、この方が神を明らかに示したのである。

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[小郡]主の降誕第6日(水)のオミリア(2015.12.30.)

聖クララ会修道院の聖堂で行われたミサのオミリア[7分]2015.12.30.Wed.←をクリックして聴くことができます。

《福音》ルカ2・36-40 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 

シメオンの預言—イエスは人々に対決を迫るしるし

 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという預言者がいた。アンナは年老いていた。おとめの時から七年間夫と暮らしたが、それ以後八十四歳のこのときまで、やもめをとおしてきた。アンナは神殿をはなれることなく、断食したり祈ったりしながら、夜も昼も奉仕につとめていた。そのアンナが、ちょうどこのとき、そこに居あわせており、神に賛美をささげて、エルサレムの解放をまつすべての人に、幼子のことを語り聞かせた。親子は、主の律法どおりにすべてをすませると、ガリラヤの自分たちの町ナザレにもどった。幼子はたくましく成長し、知恵にみち、神の好意がこの子に向けられていた。

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聖家族の祝日:教皇「家庭は赦しを学ぶ場所」

    2015年12月28日バチカン放送日本語課の記事より。

聖家族の祝日:教皇「家庭は赦しを学ぶ場所」

典礼暦で「聖家族の祝日」を記念した12月27日、教皇フランシスコによる「家庭のためのミサ」がバチカンで捧げられた。

今月8日に開幕した「いつくしみの聖年」の特別行事として、この日「家庭のための聖年」が祝われた。

教皇ミサがとり行われた聖ペトロ大聖堂には、ローマ教区を初め、世界各国から多くの家族が参加した。

ミサの説教で教皇は、いつくしみの聖年にあたり、多くの人が世界各地の司教座聖堂に設けられた「聖年の扉」に向けて巡礼するであろうと述べながら、教皇は少年イエスもまたヨセフとマリアと共に、過越祭にエルサレムに巡礼していた(ルカ2,41-52)ことを思い起こされた。

家族が揃って巡礼すること、特に親子で主の家に赴き、共に祈ることは素晴らしいことと教皇は強調し、マリアとヨセフがイエスに祈りを教え、共に聖書の言葉に耳を傾けている場面を観想するよう勧められた。

教皇は家庭生活そのものを一つの「巡礼」として示され、共通の目的地に向かって家族が一体となって歩みながら、一緒に困難を乗り越え、喜びや慰めを共有していくことの大切さを説かれた。

また、教皇は、巡礼とは巡礼地に到着してそれで終わるものではないとも指摘。家に戻ってから、巡礼で得た精神的実りを日常生活の中で活かしていくことが重要と話された。

マリアとヨセフが帰路についた時、イエスだけはエルサレムに残ったために、二人はイエスを探し回り、やがてイエスがエルサレムの神殿の境内で学者たちと議論しているところを発見することになる。このエピソードに注意を向けつつ、教皇は、福音書には記されていないが、イエスは後で両親に謝り、家に帰ってからは、両親に大きな愛情を示し、彼らに従っただろうと話し、巡礼は成長の機会、赦しを請う機会にもなると述べられた。

いつくしみの聖年に、すべての家族が赦し赦されることの喜びを体験し、家庭が赦しを学ぶと同時に、理解と支えを確信できる場所となるようにと教皇は願われた。

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2015.12.26.〜1.10.)

★12月31日は小郡教会で23時から「神の母聖マリア・世界平和祈願」のミサをささげます。一年の感謝、そして新しい年の世界平和を祈りましょう。聖母マリアの取り次ぎを願いながら。

★元旦のミサは小郡教会で9時30分から、鳥栖教会で11時からささげられます。

★なお、1月から3月まで主日のミサは小郡で8時30分から。鳥栖教会で11時からささげられます。主日前晩(土曜日)のミサは毎週、小郡教会で19時30分からです。

★今年も主日のミサを大切にして、「いつくしみふかい者」となるよう努めてまいりましょう。

鳥栖・小郡ミサ時間と場所2015

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教皇フランシスコの一般謁見演説(2015.12.2.)公式訳

12月2日の謁見のメッセージの公式訳です。今回は「アフリカの司牧訪問」について。カトリック中央協議会から。

*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。

2015.12.2. PF.一般謁見演説 :アフリカ司牧訪問_ページ_1 2015.12.2. PF.一般謁見演説 :アフリカ司牧訪問_ページ_2 2015.12.2. PF.一般謁見演説 :アフリカ司牧訪問_ページ_3 2015.12.2. PF.一般謁見演説 :アフリカ司牧訪問_ページ_4

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聖ステファノの祝日:教皇「殉教者とはイエスのように生きる人」

    2015年12月26日バチカン放送日本語課の記事より。

聖ステファノの祝日:教皇「殉教者とはイエスのように生きる人」

12月26日の聖ステファノの祝日、教皇フランシスコは、バチカンに集った巡礼者と正午の祈りを唱えられた。

カトリック教会の典礼暦は、主の降誕の翌日、最初の殉教者、聖ステファノを記念する。

教皇は集いの説教で、「前日の降誕祭、わたしたちは救い主の誕生を祝ったが、今日、聖ステファノの日に当たり、イエスの忠実なる証し人の天における誕生を見る」と話された。

聖ステファノが人々からの石打ちによって殉教した際、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」とひざまずいて叫び、神に赦しを請うたことは(使徒言行録7,60)、十字架につけられた時、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23,34)と言ったイエスに、聖ステファノを近づけるものと教皇は指摘。

殉教者とは「証人」を意味するが、実際、真の証人はイエスのように生き、イエスのように愛し、与え、そして何よりも赦すことを知っていると述べられた。

赦すことが一体何になるのか、それは単なる良い行いに過ぎないのかと教皇は問いながら、その答えをステファノの殉教の中に探すよう招かれた。

聖ステファノが神にその赦しを願った迫害者の中に、サウロという若者がいた。そのサウロは、後に偉大な宣教者、聖パウロとなる。

パウロは、神の恵みと、ステファノの赦しによって誕生したと述べた教皇は、わたしたちもまた神の赦しの中から生まれ、洗礼の時だけでなく、神からいつも赦されるたびに、わたしたちの心は新たにされると説かれた。

人を赦すことは確かに難しいことであるが、聖ステファノのように祈り、自分を傷つけた人を神のいつくしみに託すことが大切と教皇は話し、御父のようにわたしたちもまたいつくしみ深い者となり、赦しを通して、善をもって悪に打ち勝ち、憎しみを愛に変え、世の中をより良くしていこうと呼びかけられた。

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