*5月1日(日)の主日のミサは鳥栖、小郡教会ともに杉原寛信神父[カテドラル大名町教会主任]が司式します。
*5月6日(金)の初金曜日信心ミサは小郡教会聖堂で午後7時からです。司式はG. ピアッチーニ神父[聖マリア病院チャプレン]です。
2016年4月29日バチカン放送日本語課の記事より
教皇フランシスコは、4月29日、再生医療をめぐる国際会議の参加者とお会いになった。
この集いには、米国のジョー・バイデン副大統領も参加、教皇は副大統領と挨拶を交換された。
教皇庁文化評議会(議長:ジャンフランコ・ラヴァージ枢機卿)が主催したこの会議では、「細胞の展望:科学・技術・情報・コミュニケーションが社会に与える影響」をテーマに、特に現代社会において難病の治療がどのように扱われているかについて意見が交換された。
参加者らへの挨拶で教皇は、難病患者たちに対し社会がしばしば十分な関心を向けないことの理由として、難病治療に向けた投資から豊かな経済的見返りを期待できないという観点があることを指摘。
これまでの難病を持つたくさんの人々との出会いを教皇は振り返りながら、世界に多く存在する難病患者とその家族たちの苦しみや不安に思いを寄せられた。
教皇はバチカンの文化評議会およびその関連組織が取り組んでいる課題として、難病問題への「関心の呼びかけ」「教育と研究」「治療へのアクセスを保証する」の3点を示された。
難病問題への関心を社会において高めることは基本的重要課題と教皇は述べ、病者をはじめ隣人に手を差し伸べることに誰も無関心でいてはならないと強調された。
また、教皇は学問の世界および産業界において人間の尊厳と命を守るという自覚が常に必要と説き、連帯、寛大、無償性、分かち合いなどの高い精神価値を教育を通して培い、研究の中にもその精神を育むことを目指さなくてはならないと話された。
さらに、治療へのアクセスについて、人間の命に対し利益主義が勝ることが決してあってはならないと教皇は警告。研究者の育成や研究費の増加、法整備の推進、人間を優先した経済モデルへの変革などの必要を指摘しつつ、「無関心のグローバル化」から脱し、「共感のグローバル化」を構築できるよう願われた。
2016年4月28日バチカン放送日本語課の記事より
教皇フランシスコは、イタリアのヴェッレトリ刑務所の受刑者たちに手紙をおくられた。
今年3月、アルバーノ教区のマルチェッロ・セメラーロ司教が同刑務所を訪問した際、受刑者たちから教皇に宛ての手紙を託された。このたびの教皇の書簡は、これらの手紙に答える形となった。
書簡の中で、教皇はしばしば刑務所で生活する人々を思い起こしていると述べ、各地に司牧訪問の機会があれば、ご自身の愛情と寄添いの気持ちを伝えるために、可能な限り受刑者らとの出会いを願っていると明らかにされた。
現在開催中の「いつくしみの聖年」においても、「受刑者の聖年」の日が設けられており、この機会にすべての受刑者と相互の祈りのうちに霊的に一致したいと教皇は記された。
受刑者たちは時間が止まったかのように見える世界に生きていても、真の時間は時計によって測られるそれではないと教皇は指摘。真の時間は希望によって測られると説きつつ、信仰による希望の光をいつも灯し続けるよう励まされた。
神は一人ひとりを愛される、過去に閉じこもらず、むしろそれを成長と信仰と愛の歩みに変えていくようにと、教皇は受刑者たちに呼びかけられた。
2016年4月27日バチカン放送日本語課の記事より
教皇フランシスコは、バチカンで4月27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇は「いつくしみ」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)で、ルカ福音書の、「善いサマリア人」のたとえ(10,25-37)を取り上げられた。
イエスは、一人の律法の専門家から「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」と問われた。
それに対しイエスは、「律法には何と書いてあるか」と逆に尋ねた。すると律法家は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えた。
イエスがそれを実行するように言うと、律法家は再び「では、わたしの隣人とは誰ですか」とイエスに質問した。イエスはこの「善いサマリア人」のたとえをもって、隣人とは誰かを説明された。
教皇はこのたとえ話の登場人物として、神殿の祭事に関わる人々である祭司とレビ人、そして当時のユダヤ人からは異邦人・異端としてさげすまれていたサマリア人の3人を挙げ、彼らが道端に追いはぎに遭って負傷し倒れていたひとりの人を見つけた時の、それぞれの反応に注目するよう招かれた。
主の掟ではこうした状況でこの人を救助することを義務としているにも関わらず、祭司とレビ人は、立ち止まることもなく通り過ぎて行ってしまった。教皇はこれについて、神殿に通い、神のいつくしみを知っているはずの者が、必ずしも隣人を愛せるとは限らないと話された。
倒れた人を見ても無視したこの祭司とレビ人のように、隣人に奉仕するという形で信仰を表せないならば、それは真の信仰ではないと教皇は述べ、「飢えや暴力や不正に苦しむ人々を無視してはなりません。これらの人々を無視することは、神を無視することです」と強調された。
これに対し、追いはぎに襲われた人を見て、「あわれに思い」、近寄り、介抱したのは、まさに、さげすまれているサマリア人であった。
祭司とレビ人は負傷した人を見ても、心は冷たく閉じたままであったが、サマリア人の心は、いつくしみ深い神ご自身の心と呼応し、「同情」に満ちていたと教皇は話された。
実際、サマリア人の行為は真のいつくしみに動かされたものであり、彼は倒れた人の傷に包帯し、宿屋に連れて行き、介抱した。教皇は、この行為は、同情や愛は漠然とした感情ではなく、自分を犠牲にしてまで他人の世話をすることであると、わたしたちに教えていると説かれた。
イエスはたとえ話の最後に、「あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と律法の専門家に問い、律法家は「その人を助けた人です」と答えた。
教皇は、心の中に同情を持つならば、人生で出会う助けを必要とするすべての人の隣人となれると話し、イエスが律法の専門家に言った「行って、あなたも同じようにしなさい」という言葉を繰り返された。
《復活節第5木曜日のオミリア》イエスの愛、イエスの「掟」は普遍的。神のいつくしみはすべての人に及んでいる。*オミリア(み言葉を基にした短いお話し)と共に聖書の言葉やミサで使われる「言葉」を紹介しています。時間のある時にゆっくりと「言葉」を味わうことをお勧めします。読む方へのメッセージに気づくことができると思います。
聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[12分][聖クララ会]2016.4.28.←をクリックして聴くことができます。
《第一朗読》使徒たちの宣教15・7-21 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 新世社
派遣される者たちと各集会の長老たちによる協議
[その日、]多くの議論のすえ、ペトロが立って、みんなに言った。「仲間のみなさん、あなたたちは知っています。神は、最初のときから、あなたたちのあいだでわたしを選び、わたしの口をとおして世俗の民が福音のできごとを聞き、信頼をもってあゆみを起こすようになさいました。
《神は他宗教、無宗教の人を差別しない》
そして、人の心を見とおされる神は、わたしたちと同じように、世俗の民に聖霊を与えることによって、かれらのことを保証されたのです。神は、世俗の民の心をすでに清めておられるので、信頼をもってあゆみを起こすことについて、わたしたちとあの人たちの間をなんら差別しませんでした。
《福音を生きるのに、改宗の必要はない》
それをなぜ、今あなたたちは、父祖たちもわれわれも担いきれなかったくびきを あの弟子たちの首にかけて、神を試すようなことをするのですか。わたしたちは、主イエスの好意によって救いを得るのだと、信頼をもってあゆみを起こしているわけですが、立場はあの人たちも同じです」。それで一同は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちをとおして神が世俗の民のあいだで奇跡やふしぎなことを行なわれた、という説明に、耳を傾けるようになった。
ペトロではなく、エルサレム集会の責任者ヤコブが、会議の結論を出す
そして、二人が話し終えて静まりかえったとき、ヤコブはこう言った。「同胞であるみなさん、聞いてください。救いの歴史の始まりのときと同じように、世俗の民の中からご自身を身に帯びた一つの民を取り分けるため、神が訪れてくださったことは、シメオン(ペトロ)が説明してくれました。預言者たちの言ったことも、これを裏づけています。こう書かれています。『そのあと、わたしは戻ってきて、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その掘りくずされたところを建て直して、ふたたび幕屋をまっすぐにする。こうして、取り残された者たちと、わたしを身に帯びたすべての世俗の民が、主を求めるようになる。昔から知らせておいたこのことを、実行に移される主が、そう言われる』と。(アモス9・11-12)
《ユダヤ教戒律と社会正義の四つの接点》
ですから、わたしは、こう判断します。世俗の民で神に立ち返る人たちを、悩ませてはなりません。ただ、偶像と売春と絞めころした動物と流血とによる汚染から身を引くように、その人たちに書き送るべきです。なぜなら、昔からどの町にもモーセの律法を宣べ伝えようとする人々がいて、安息日ごとに、どの会堂でも、律法が読み聞かされているからです」。
《答唱詩編》詩編96・1+2、3+4 新共同訳
答唱:遠く地の果てまで、すべての者が神の救いを見た。
新しい歌を神にうたえ。世界よ、神に向かって喜び歌え。神の名をたたえて歌い、日ごとに救いを告げ知らせよ。/すべての国にその栄光をかたり、すべての民に不思議なわざを伝えよ。神は偉大、ほむべきかた、すべてを越えておそるべきかた。
《福音朗読》ヨハネ15・9-11 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 新世社
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「父がわたしを大切にしてくれたように、わたしもあなたたちを大切にした。わたしのこの大切に思う心を、あなたたちは受けとめなさい。あなたたちがわたしの掟をふみ行なうなら、わたしが大切に思う心を、あなたたちは受けとめているのだ。それは、わたしが父の掟をふみ行なって、父が大切に思う心を受けとめているのと同じである」。
イエスに選ばれた小さくされた者たちの役割と使命
「こういうことをあなたたちに話したのは、わたしの喜びがあなたたちにあるようにと、また、その喜びがいっぱいになるようにと願ってのことである」。
「復活節第3主日」の「アレルヤの祈り」のことばです。カトリック中央協議会のホームページから。*カトリック中央協議会広報部から(文字を拡大し、読みがなを付けることを含めて)転載の許可を得ています。
*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。
2016年4月26日バチカン放送日本語課の記事より
教皇フランシスコは、ローマで行われた地球環境を考えるイベントを訪問された。
「地球のための村」と題されたこのイベントは、4月22日の「アースデー」を機会に、持続可能な発展と地球への愛をテーマに、25日までローマ市内のボルゲーゼ公園で開催された。
24日午前、「少年少女たちの聖年」のミサをバチカンで捧げられた教皇は、午後からこのイベントにサプライズ参加された。
主催者や市民への挨拶で、「皆さんがしていることは、砂漠の広がるところ、すなわち希望のない場所を、森に変えることだと思います」と述べた教皇は、偏見や恐れなどによって、都市の中にも、人々の生活の中にも砂漠が広がっていると指摘。
福音書の「善いサマリア人」のたとえ(ルカ10,30-37)で、追いはぎに襲われ、負傷して倒れている人を見て、レビ人と司祭は関わりを持たないように道の向こう側を通っていったことを教皇は思い起こしながら、「危険を冒さない人は、現実に決して近づくことができません」と話された。
「近づくことは危険でもあるが、また一つの機会でもある」と教皇は話し、矛盾や悪を解決するためにはそこから逃げてはならないと説かれた。
「道を歩く時、人々の顔を観察してごらんなさい。皆、心配した顔や、自分自身に閉じこもった顔をして、微笑がないでしょう」と教皇は話し、そこに足りないものは「社会的友情」であると強調。
社会的友情のないところには戦争があり、それのあるところには赦しと歩み寄りがあるとする教皇は、社会的友情の特徴はまた「無償性」にあると指摘。これに対し、人間を押しのけ、経済を中心に据え、金銭という「神」を崇拝する社会に警告を発せられた。
こうして教皇は、よりよい社会の構築のために「無償性」「赦し」などのキーワードを示すと同時に、「共に働くこと」の重要さにも言及。互いに尊重し合い、共に協力しながら、砂漠を森に変えるという奇跡を見ることができるようにと、人々を励まされた。
《復活節第5水曜日のオミリア》「望むことはなんでも願いなさい。それはかなえられる。」ただし条件? がある…。「あなたたちがわたしにつながっていて、わたしの話したことがあなたたちの内に宿っているなら…、」*オミリア(み言葉を基にした短いお話し)と共に聖書の言葉やミサで使われる「言葉」を紹介しています。時間のある時にゆっくりと「言葉」を味わうことをお勧めします。読む方へのメッセージに気づくことができると思います。
聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[5分][聖クララ会]2016.4.27.←をクリックして聴くことができます。
《福音朗読》ヨハネ15・1-8 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 新世社
イエスはぶどうの木——(パレスチナ地方の木の中でいちばん丈が低い)
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしはほんとうのぶどうの木であり、父は栽培人である。わたしについている枝で、実をつけないものはみな、父がそれを落としていく。実をつける枝はみな、よりよい実をつけるように、手入れをする。わたしが身をもって告げたそのことによって、あなたたちはすでに手入れがすんでいる。わたしにつながっていなさい。わたしのほうからは、つながっているのだ。枝はぶどうの木につながっていないかぎり、自分では実をつけることができないように、あなたたちもわたしにつながっていなければ、実ることはできない。わたしはぶどうの木で、あなたたちは枝である。人がわたしにつながっていて、わたしもその人につながっているなら、その人はゆたかに実る。わたしぬきには、なにごともなしえないものだからである。わたしにつながろうとしない人があれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められて火に投げ入れられ、焼かれてしまう。あなたたちがわたしにつながっていて、わたしの話したことがあなたたちの内に宿っているなら、望むことはなんでも願いなさい。それはかなえられる。あなたたちがゆたかに実り、わたしにならう者(弟子)となること、このことをとおして、父が輝き出るのだ」。
小郡教会での11時からの復活節第3主日の説教。 エクレシア九州TVの動画Blog「こころのヒント!」で視聴することができます。
《福音朗読》ヨハネ13・31-33a、34-35 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 新世社
窮状(きゅうじょう)に立つイエスと弟子たちのための、「新しい掟」
ユダが出ていくと、イエスは言った。「今こそ、人の子は輝きを得た。神も人の子によって輝きを得られたのだ。神が人の子によって輝きを得られたのなら、神もご自分の内から人の子を輝かし出される。すぐにも、人の子を輝かし出される。かけがえのない仲間たち、わたしがあなたたちといっしょにいるのは、いま少しのあいだだけだ。/わたしは、あなたたちに新しい掟を与える。互いに大切にしあいなさい。わたしがあなたたちを大切にしたように、あなたたちも互いに大切にしあいなさい。あなたたちが互いに大切にしあうなら、そのことによってあなたたちがわたしの弟子であることを、みんな、納得するようになるだろう」。
4月6日の謁見のメッセージの公式訳です。特別聖年に関する連続講話。第13回。「いつくしみ福音」カトリック中央協議会ホームページから。*カトリック中央協議会広報部から(文字を拡大し、読みがなを付けることを含めて)転載の許可を得ています。
*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。