月別アーカイブ: 2017年12月

[鳥栖]「聖家族」ミサ説教(2017.12.31.)

鳥栖教会11時からの「聖家族」ミサ説教(10分)。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【福音】モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は[イエス]を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。…親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカ福音書2章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]「聖家族」ミサ説教(2017.12.31.)

小郡教会8時30分からの「聖家族」ミサ説教(11分)。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】恵み豊かな父よ、あなたは、聖家族を模範として与えてくださいました。わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【福音】モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は[イエス]を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。…親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカ福音書2章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2017.12.30.〜2018.1.14.)

主日のミサ時間は2018年6月まで小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時〜です。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。*鳥栖カトリック幼稚園園舎新築工事のため駐車場が使用できないので。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

http://ja.radiovaticana.va/news/2017/12/13/日曜日にミサに参加する意味を考える、教皇一般謁見/1354496

http://ja.radiovaticana.va/news/2017/12/20/「ミサは、開祭に遅刻しないことが大切」教皇、一般謁見で/1355663#

 

 

 

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。変更される時もありますので、小郡教会ホームページの毎週の「お知らせ」でご確認ください。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。一度参加してみてください。

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教皇、テゼ共同体のヨーロッパ大会にメッセージ

2017年12月28日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、テゼ共同体のヨーロッパ大会にメッセージ

教皇フランシスコは、スイスで開幕したテゼ共同体のヨーロッパ大会にメッセージをおくられた。

テゼ共同体は、1949年、ブラザー・ロジェによりフランスのテゼに創始された、教派を超えたキリスト教者のエキュメニカルな国際的共同体。

テゼ共同体は、毎年、年末から年始にかけて、ヨーロッパ青年大会を開催している。第40回を迎える今年は、スイスのバーゼルで、12月28日から来年1月1日まで開かれる。

教皇はここ数日テゼに集う数万人の若者たちに、バチカン国務長官ピエトロ・パロリン枢機卿を通じてメッセージを寄せられた。

この中で教皇は、「喜び」をテーマとする同大会に際し、「福音の喜びは、イエスと出会う人たちの心と人生全体をいっぱいに満たします」と述べ、この集いを喜びの泉であるイエスのメッセージをより深く理解する機会とすることを望まれた。

また、イエスとの友情から生まれるこの喜びは、隣人や世の苦しみに対してわたしたち自身を開かせると強調しつつ、教皇は、青年たちが他の人々との出会いに基づく「いつくしみの文化」、「兄弟の苦しみに背を向けない文化」のもとに成長できるよう、主の助けを願われた。

教皇は、今年記念した宗教改革500年に言及。プロテスタント、カトリック、正教会の若者たちが、喜びを分かち合い、互いの違いによって豊かになりながら、分裂の傷にも関わらずわたしたちを一致させる、福音の喜びを示して欲しいと希望された。

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主の降誕の意味を考える、教皇一般謁見

2017年12月27日バチカン放送日本語課の記事より

主の降誕の意味を考える、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで12月27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

クリスマスの喜びに包まれたこの時期、教皇は謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、主の降誕の意味を巡礼者と共に考えられた。

教皇は、現在、特にヨーロッパで、クリスマスの本来の意味を変質させようとする傾向が見られることに言及。

キリスト教徒でない人々に対する偽りの尊重の裏には、しばしば信仰を遠ざけ、この祝祭からイエスの降誕に関するあらゆる要素を排除しようとする意図が見られると警告された。

イエスなしではクリスマスは存在しないと述べた教皇は、イエスが中心にあってこそ、光や、音、地域の様々な伝統、食べ物など、クリスマスを彩るすべてのものに意味が与えられるのであり、イエスを取り去るならば、光は消え、すべては見せ掛けだけの、偽のお祭りとなると話された。

わたしたちと同じ人となられたイエスは、名もない貧しいおとめから、馬小屋の中に生まれたが、世は何もそのことに気付かなかった。しかし、その時、天では天使たちが神を賛美していた。闇に沈み、眠気と無気力に浸る人類に対する神からの贈り物として、神の御子は、今日もまた、わたしたちに差し出されると、教皇は語られた。

教皇は、時に人類は闇を未だ好むように見受けられるが、それは光があったならば、彼らの行いと考えは自分を赤面させ、良心の呵責を感じさせるからであると述べ、こうして人は闇の中に留まることを好み、誤った習慣を改めることをよしとしないと話された。

では、イエスという神の贈り物を受け入れることの意味は何であろうかと教皇は問い、それはイエスご自身がその生き方をもって教えられたように、人生の途上で出会う人々に対し、自分自身が無償の贈り物となることであると強調。

クリスマスに贈り物を交換するのはそのためであり、わたしたちにとって真の贈り物はイエスであるように、わたしたち自身もまたイエスのように他の人々への贈り物とならなければならないと説かれた。

クリスマスにおいて、わたしたちはこの世の権力者たちによって動かされる人間の歴史に、神の歴史が訪れるのを見ると教皇は指摘。

神は社会の片隅にいる人々に、その恵み、すなわちイエスによってもたらされた救いを最初に差し向け、イエスは蔑まれた小さき者たちと長い友情を結び、その友情はより良い未来への希望を育むと述べられた。

ベツレヘムの羊飼いたちに代表されるこれらの人々を大きな光が照らし、彼らをまっすぐにイエスへと導いた(参照:ルカ2,9-12)と語る教皇は、神はいつの時代も、彼らと共に、誰もが拒絶され、虐げられ、困窮することのない、新しい世界を築くことを願っておられると話された。

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[クララ]幼子たちのために[2017.12.28.オミリア]


 《幼子殉教者》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[3分]を聴くことができます。

12月25日の教皇メッセージを紹介して、オミリアを始めました。オミリアの最初の部分は省略して途中からの録音です。教皇メッセージはバチカン放送の記事で見ることもできます。

 

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現われて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」(マタイによる福音書2章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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訃報[2017.12.27.]

福岡コレジオ院長森山信三神父様のお父様 アシジのフランシスコ森山敬三様[93歳] が26日未明帰天されました。永遠の安息をお祈りください。

通夜ならびに葬儀の日時と場所は以下の通りです。

通夜 12月27日(水)午後6時30分

葬儀 12月28日(木)午前11時

場所 カテドラル大名町教会

喪主 森山 冨美子様(妻)

主よ、アシジ・フランシスコ森山敬三様に永遠の安らぎをお与えください。

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[クララ]復活のできごと[2017.12.27.オミリア]

《福音記者聖ヨハネ》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[週の初めの日、マグダラのマリアは、]シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。(ヨハネによる福音書20章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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聖ステファノの祝日:教皇「イエスを受け入れ、その勇気ある証し人となれるように」

2017年12月25日バチカン放送日本語課の記事より

聖ステファノの祝日:教皇「イエスを受け入れ、その勇気ある証し人となれるように」

教皇フランシスコは、12月26日、聖ステファノの祝日に、巡礼者と共に正午の祈りを唱えられた。

カトリック教会の典礼暦は、主の降誕の翌日26日に、キリスト教の最初の殉教者、聖ステファノ助祭を記念する。

この日は朝から曇りがちな日となったが、降誕祭の休暇にバチカンを訪れた多くの人々で、聖ペトロ広場は賑わいを見せていた。

教皇は集いの説教で次のように話された。

**********

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

イエスの地上における誕生を祝った後、今日、わたしたちは最初の殉教者、聖ステファノの天国における誕生を記念します。一見、この二つの祝日は互いに関係がないように思われるかもしれません。しかし、実際にはとても強い関係があるのです。

昨日、主の降誕の典礼で、わたしたちは次の言葉が高らかに告げられるのを聞きました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ 1,14)。

聖ステファノは「信仰と聖霊に満ち」 (使徒言行録 6,5)、人々の間におられる神の新しい現存を固く信じていたために、長老たちを動揺させました。ステファノは神の真の神殿とは、いまやイエスであると知っていました。イエスはわたしたちの間に住まわれるためにやって来られた永遠のみことばであり、罪以外は、わたしたちとまったく同じようになられました。ステファノはエルサレムの神殿の破壊を説教したかどで訴えられました。彼に向けられた訴えは、「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう」(使徒言行録6,14)と明言したことに対してでした。

実際、イエスのメッセージは不都合なものであり、わたしたちにとってやっかいなものです。なぜなら、それは世俗的な宗教権力に挑戦し、良心の糾明をさせるものだからです。イエスの到来の後、そこには回心し、メンタリティーを変える必要、元のように考えることを諦める必要が生じました。

ステファノは死に至るまで、イエスのメッセージと固く結ばれていました。彼の最後の祈りは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録 7,59-60)というものでした。

この二つの祈りは、イエスが十字架上で言った「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます」» (ルカ 23,46)と「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ 23,34)を忠実に反映するものでした。ステファノのこの言葉は、神の御子がこの地上に来られ、わたしたちのために死に、復活されたからこそ可能となったのです。これらの出来事は、その以前には人間の力では到底考えられないことでした。

ステファノは、イエスに自分の霊を受け取って欲しいと願います。実際、復活したキリストは主であり、臨終の時だけでなく、人生のあらゆる時における、神と人間との間の唯一の仲介者です。キリストを離れては、わたしたちは何もできません(参照:ヨハネ 15,5)。

わたしたちもまた、プレゼピオの幼子イエスの前でこのように祈ることができます。「主イエスよ、わたしたちの霊をあなたにゆだねます。お受け取りください」と。わたしたちの人生が福音に基づいた真に良いものとなるようにと願うのです。

イエスはわたしたちの仲介者であり、わたしたちを神との間はもとより、自分たちの間においても和解させてくださいます。イエスは愛の源として、わたしたちを、あらゆる争いや怨恨から解放し、兄弟たちと一致し、互いに愛し合うようにしてくださるのです。怨恨は醜いもので、わたしたちのためになりません。イエスはこれを取り去り、わたしたちが愛し合うようにしてくれます。これはイエスの奇跡です。

わたしたちが、御父における信頼と、隣人に対する愛という、二つの態度をとることができるよう、わたしたちのためにお生まれになったイエスに願いましょう。この態度は人生をより素晴らしく、実り多いものに変えるでしょう。

贖い主の母、殉教者たちの母であるマリアに、信頼をもって祈りましょう。わたしたちがイエスを自分たちの人生の主として受け入れ、福音への忠実のために自己犠牲をも厭わない、イエスの勇気ある証し人となれるよう、聖母の助けを願いましょう。

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2017年度降誕祭:バチカンで教皇司式の深夜ミサ

2017年12月24日バチカン放送日本語課の記事より

2017年度降誕祭:バチカンで教皇司式の深夜ミサ

教皇フランシスコは、バチカンで12月24日、2017年度の降誕祭を祝う深夜ミサを捧げられた。

聖ペトロ大聖堂でとり行われた教皇ミサには、夜の冷え込みにも関わらず、世界各国の巡礼者たちが大勢詰め掛けた。

ミサの説教で教皇は、神はベツレヘムの幼子イエスにおいて、無限のいつくしみのうちに、社会で疎外された人々を抱擁され、わたしたちもそれに倣うようにと招かれる、降誕祭は恐れの力を愛の力に変容させ、無関心から目覚めさせる時、と説かれた。

教皇のミサ中の説教は以下のとおり。

**********

マリアは「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2,7)。単純でありながら明解なこの表現をもって、福音書記者ルカは、あの聖なる夜の中心にわたしたちを導きます。マリアは「子を産んだ(光のもとにもたらした)」、マリアはわたしたちに光を与えました。この単純なストーリーこそ、わたしたちの歴史を永遠に変える出来事だったのです。あの夜、すべては希望の源となりました。

その少し前にさかのぼりましょう。皇帝の勅令によって、マリアとヨセフは出発せざるをえないことを理解しました。親しい人や、自分の家や土地を後にし、住民登録をするために旅の人となりました。間もなく生まれる子どもを待つ若い夫婦には、その道のりは決して楽でも、容易でもありません。しかし、彼らは故郷を離れざるを得ませんでした。彼らの心は生まれてくる子どものために希望と未来でいっぱいでした。しかし、彼らの足取りは、家を離れた人特有の、不安や危険で満ちていました。

そして、彼らは最も難しい問題と向き合うことになりました。ベトレヘムに着き、彼らを歓迎しない土地で、自分たちの居所の無い状態を体験しなくてはならなかったのです。

まさにそこで、挑戦としての現実の中で、マリアは「わたしたちと共におられる神」をもたらしたのです。神の御子は馬小屋で生まれなければなりませんでした。人々には御子を受け入れる余地がなかったのです。「自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ 1,11)。そして、遠くからやって来た旅人のための居場所もないその町の暗さの中に、他人に背中を向けて忙しく活動する町の暗さの中に、まさにそこで、神の優しさの革命的な光が灯ったのです。土地や、祖国、夢を失った人たちのために、そして、閉ざされた生活に窒息させられていた人々にも、ベツレヘムに小さな空間が開きました。

ヨセフとマリアの歩みの中には、多くの人々の歩みが隠されています。わたしたちはその中に、今日旅立ちを余儀なくされているすべての家族たちの足跡を見るのです。祖国を離れることを望まなくとも、家族から離され、故郷から追われる何万という人たちの足跡を見ます。多くの場合、旅立ちは希望と未来にあふれています。しかし別の多くの人々にとって、この旅立ちは唯一つの名を持っています。それは「生き残ること」です。その時代のヘロデ、自分の権力に服従させ、その富を肥やすためには、無実の人の血を流すことをも顧みないヘロデに対して生き残ることです。

泊まる場所も無かったマリアとヨセフは、わたしたちすべてに「市民証明」を与えるために来られたイエスを最初に抱きしめた人たちです。イエスは、その貧しさと小ささの中から、真の権力と本当の自由は最も弱い人々を尊重し、助ける人々にあると告げ示しています。

あの夜、生まれる場所にもこと欠いたイエスの存在は、食事の席や町の中に自分の居場所を持たない人々に告げ知らされました。羊飼いたちは、この良き知らせが最初に向けられた人々でした。羊飼いは、その仕事のために、社会の片隅で生きなくてはならない人々でした。彼らの生活状態や、いるべき場所は、宗教的清めの儀式の規定をすべて遵守することを阻んでいました。それゆえ、彼らは穢れた存在と考えられていました。彼らの肌、服、匂い、話し方などが、その出身を明らかにしていました。彼らのすべてが不信を生んでいました。それは距離を置くべき人々、恐れるべき人々でした。神を信じる人々にとっては異教徒、義人たちにとっては罪びと、市民にとっては異邦人でした。異教徒、罪びと、異邦人である彼らに、天使はこう言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2,10-11)。

これが、この夜、わたしたちが分かち合い、祝い、告げるようにと招かれた喜びです。この喜びをもって、神はその無限のいつくしみのうちに、異教徒、罪びと、異邦人たちを抱擁され、わたしたちもそれに倣うようにと励ますのです。

この夜、信仰は、神はいないと思われるすべての状況の中に、神の現存を認めるようわたしたちを導きます。神は、目立たない、多くの場合まったく気付かれない訪問者の中におられ、わたしたちの街や近所を歩き、バスに乗り、わたしたちの扉をたたいています。

この同じ信仰は、社会の新しいイメージに場を開き、この地上に自分の居場所がないと誰もが思うことのない、新しい関係の形を恐れず体験するようにと促します。降誕祭は、恐れの力を、愛の力、愛の新しいイマジネーションのための力に変容させる時です。愛は不正義を当然のこととせず、緊張や紛争のただ中にあって「パンの家」、受容の地となる勇気を持っています。それはわたしたちに聖ヨハネ・パウロ2世の言葉を思い出させます。「恐れてはなりません。むしろ、キリストに扉を大きく開いてください。」

ベツレヘムの幼子イエスにおいて、神はわたしたちを日常の生活の主役とするために会いに来られます。幼子イエスは、わたしたちに取り上げられ、抱擁されるために、わたしたちの腕にご自分を託されます。それは、イエスにおいて、のどの渇いた人、旅人、裸でいる人、病気の人、牢にいる人(参照:マタイ25,35-36)を両腕に受け止め、彼らを起き上がらせ、抱擁することを恐れないためです。「恐れてはなりません。むしろ、キリストに扉を大きく開いてください。」この幼子イエスにおいて、神はわたしたちに希望を担うよう招きます。閉じられた扉を前に失望に沈む多くの人々のための、歩哨となるように招きます。この幼子において、神はわたしたちをご自身のもてなしの主役としてくださいます。

ベツレヘムの小さな幼子よ、賜物に喜び感動しながら、あなたに願います。あなたの涙がわたしたちを無関心から目覚めさせ、わたしたちの目を苦しむ人の前で開かせますように。あなたの優しさがわたしたちの感受性を目覚めさせ、わたしたちの街や、歴史、人生の中にやってくるすべての人々を認めるようにわたしたちが召されていることを感じさせてくれますように。あなたの革命的な優しさが、わたしたちを人々のために希望と優しさを担う者としてくれますように。

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