月別アーカイブ: 2018年4月

[クララ]イエスの道を歩む[2018.4.27.オミリア]

《復活節第4金曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[4分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書第13章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「洗礼が与える、悪と闘う力」教皇一般謁見

2018年4月25日バチカン放送日本語課の記事より

「洗礼が与える、悪と闘う力」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで4月25日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「洗礼の秘跡」について、巡礼者らと共に考察された。

洗礼志願者らを照らし、信仰に近づけるのは「福音」である。「洗礼は、信仰に入る秘跡的な入口であるために、まさに特別な意味で『信仰の秘跡』といえる」(参照:カトリック教会のカテキズム1236)と、教皇は話された。

そして、洗礼志願者らは、イエスを「永遠の命に至る水」(ヨハネ4,14)、「世の光」(同9,5)、「復活であり、命」(同11,25)と認めるこの信仰によって、主に自らを委ねる、と語られた。

イエスの言葉と、その教えと業に育まれ、洗礼志願者は生きた水に渇くサマリアの女や、光に目を開いた生まれつき目の見えない人、墓から出てきたラザロを、自ら体験することになる。教皇は、福音は信仰を受け入れる人を変容し、その人を悪の支配から引き離し、喜びと新たな生き方をもって主に仕えることを教えると述べられた。

洗礼志願者は一人ではなく、諸聖人の連祷が思い出させるように、全教会の祈りに伴われながら洗礼盤へと向かうと教皇は指摘。教会の祈りは志願者たちの悪との闘いを支え、善の道の歩みを見守り、神の恵みの王国へと移るために、罪の力からの解放を助ける、と説かれた。

教皇は、罪と悪からの解放のために、成人の洗礼志願者の上にはいくつかの解放を求める祈りが唱えられ(参照;カトリック教会のカテキズム1237)、幼児洗礼の場合にも、原罪からの解放を神に願い、聖霊の住まいとして奉献して祈ることを紹介。

洗礼は、聖霊の賜物によって悪霊と闘う力を受洗者に与えるものと話された。

また、新受洗者に聖油を塗布することについて、教皇は、古代の闘技者は筋肉を強壮にし、敵の攻撃から逃れやすいように油を塗っていたが、初代キリスト教教会も、救い主キリストの力が洗礼志願者を強め、悪と闘うことがで きるようにと、司教によって聖別された油を志願者に塗布するようになったと説明された。

悪と闘い、その欺瞞から逃れることは容易ではないが、キリスト者の全人生は一つの闘いであることを忘れてはならないと述べた教皇は、わたしたちは一人ぼっちではなく、母なる教会はその子らが洗礼を通して再び生まれ、復活のキリストの力をもって悪の罠に打ち勝つことを祈っていると語 られた。

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[クララ]パンを食べても[2018.4.26.オミリア]

《復活節第4木曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[イエスは弟子たちの足をお洗いになった後、こう言われた。]「はっきり言っておく。僕(しもべ)は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(ヨハネによる福音書第13章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇、韓国と北朝鮮の首脳会談に向けてアピール

2018年4月25日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、韓国と北朝鮮の首脳会談に向けてアピール

教皇フランシスコは、韓国と北朝鮮による南北首脳会談を前に、この会談を機に和解と平和が推進されるようアピールされた。

4月25日、教皇はバチカンで行われた一般謁見の席で、4月27日(金)に板門店で開催される韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長による南北首脳会談に言及。

この会談が、朝鮮半島と全世界に平和を保証するための、透明性ある対話と、和解と兄弟愛を再び構築するための具体的プロセス開始のまたとない機会となるようにと期待された。

教皇は、平和を熱望する朝鮮半島の人々に、ご自身の祈りと、カトリック教会全体の精神的一致を約束された。そして、人民間の出会いと友好を目指し、より良い未来を築くあらゆる有益で誠実な取り組みを支え励ます、教皇庁の姿勢を示された。

教皇は、直接的政治責任を負う人々に向けて、平和を作り出す人として、希望の勇気を持ち、すべての人の善を目指す歩みを信頼をもって進むよう励まされた。

「神はすべての人の父、平和の父である」と述べた教皇は、朝鮮半島の人々のために、「主の祈り」を信者と共に唱えられた。

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[クララ]信じるということ[2018.4.25.オミリア]

《復活節第4水曜日:聖マルコ福音記者》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは十一人の弟子に現われて、]言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコによる福音書第16章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]キリスト者と呼ばれる[2018.4.24.オミリア]

《復活節第4火曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリアの内容です。*今日はレコーダーを忘れました。

 わたしたちはお互いに「信者」と呼び合ったりしています。「キリスト教の信者…」というように。そして他の宗教の人たちも「信者」と呼んでいます。これが宗教に属する人の一般的な呼び方でしょう。今日の「使徒言行録」では、最初の弟子たちはアンティオキアで初めて「キリスト者」と呼ばれるようになった、と伝えています。日本のカトリックの中では「クリスチャン:キリスト者」という呼び方はあまり定着していないようですが、イエスを主キリストと信じている人たちは「キリスト者」と呼ばれます。イエスの言葉を聞いて生きる力をいただき、イエスの呼びかけに応えてイエスと共に人生を歩みます。教皇フランシスコは先日の日曜日、「イエスと生きた関係をきずきましょう」と呼びかけられました。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

【第一朗読】[その日、]ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰に満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。[使徒言行録第11章]

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇「良い羊飼い、イエスとの生きた関係を築こう」

2018年4月23日バチカン放送日本語課の記事より

教皇「良い羊飼い、イエスとの生きた関係を築こう」

教皇フランシスコは、バチカンで4月22日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

「良い牧者の主日」といわれ、「世界召命祈願日」を記念する復活節第4主日、教皇はこの日の聖書朗読箇所を取り上げながら、「復活の主の弟子たち」としてのキリスト者のアイデンティティーを考察された。

使徒言行録(4,8-12)で、ペトロは足の不自由な人に癒しを行なったが、その人が癒されたのはイエス・キリストの名によるものであり、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と宣言する。

癒されたこの人は、わたしたち一人ひとりの中に、またわたしたちの共同体の中にいると教皇は述べ、復活された主の手に信頼をもって自分を委ねるならば、誰もが、野心・怠惰・高慢などの、様々な形の霊的な弱さから癒されることができると語られた。

では、その癒してくださるキリストとは誰なのか。教皇はその答えを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10,11)というイエスの言葉の中に示された。

イエスは羊のために命を捨てる羊飼いであり、「あなたの命はわたしにとってこれほどにも大切であるために、あなたを救うためにわたしのすべてを与えよう」とわたしたち一人ひとりに言い、ご自分の命を与えてくださる方であると教皇は説かれた。

次に、キリストに癒されるための条件とは何なのか。これについて教皇は「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(ヨハネ10,14-15)というイエスの言葉を引用。

御父とイエスとの親密な愛に満ちた絆を反映する、イエスとわたしたちとの個人的な生きた関係を築く必要を指摘された。

わたしたちは、イエスに自分の心を深く知ってもらうと同時に、自分たちもイエスと出会い、イエスを知るように招かれていると述べた教皇は、その出会いによってわたしたちは自分のことだけしか考えない態度を捨て、キリストに従い、広い世界に開いた新しい道を歩むようになると話された。

「世界召命祈願日」を記念したこの日、教皇は午前中バチカンで司祭の叙階式を行われた。この正午の祈りの集いで、教皇は叙階された新司祭の代表4人と共に、バチカン宮殿の窓から、信者らに祝福をおくられた。

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「常にいつくしみ深くあれ」教皇、司祭叙階式で

2018年4月22日バチカン放送日本語課の記事より

「常にいつくしみ深くあれ」教皇、司祭叙階式で

教皇フランシスコは、バチカンで司祭の叙階式をとり行われた。

復活節第4主日、カトリック教会の「世界召命祈願日」を記念した4月22日、教皇は聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられ、この中でローマ教区の11人をはじめとする計16人の助祭を司祭に叙階された。

儀式に先立つ説教で教皇は、新しい司祭たちが、師・司祭・牧者であるキリストに協力し、キリストのからだ、神の民、聖霊の神殿である教会を、共に築いていくことを願われた。

そして、その教えと、自身の生き方の証しを通して、信者たちの支え、喜びとなって欲しいと話された。

教皇は新司祭たちに、常にいつくしみ深くあるようにと強調。自分の罪を思い、イエスに赦された自身の惨めさを思い出すことで、いつくしみ深い者となりなさい、と説かれた。

皆さんが司祭として選ばれたのは、神に仕え、キリストの司祭職を喜びと愛をもって行なうためと述べた教皇は、司祭であるのは、自分の利益のためでなく、ただ神と神の民のためであることを忘れないように促された。

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[小郡]「復活節第4主日」ミサ説教(2018.4.22.)

《復活節第4主日:世界召命祈願の日》小郡教会聖堂で11時から行われたミサの説教[10分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは言われた。]「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。—狼は羊を奪い、また追い散らす。—彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ福音書10章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[鳥栖]「復活節第4主日」ミサ説教(2018.4.22.)

《復活節第4主日:世界召命祈願の日》鳥栖教会聖堂で8時30分から行われたミサの説教[11分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは言われた。]「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。—狼は羊を奪い、また追い散らす。—彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ福音書10章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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