月別アーカイブ: 2018年9月

教皇「信仰告白は言葉だけに留まってはならない」

2018年9月16日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「信仰告白は言葉だけに留まってはならない」

教皇フランシスコは、日曜の集いで、「自分にとって、イエスとは誰か」という問いと向き合うよう、信者たちを招かれた。

教皇フランシスコは、9月9日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

説教で教皇は、この日の福音朗読されたマルコ福音書(8,27-35)を取り上げられた。

この箇所で、イエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねる。ペトロは「あなたは、メシアです」と答え、信仰を言い表した。イエスが弟子たちに、ご自分が多くの苦しみを受け、殺され、復活することを教えると、ペトロはイエスをいさめ始めた。イエスは、あなたは神のことでなく、人間のことを思っていると、ペトロを叱った。

ここでは、「イエスとは誰か」という問いに向き合えるよう、イエスご自身が弟子たちを段階的に導いている、と教皇は指摘。

最初、イエスは「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ね、弟子たちは、人々が「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者だ」と言っている、と答えるが、イエスは人々の噂話や、近視眼的見方には関心がなかった、と話された。                                              

教皇は、「昔も今も、イエスは弟子たちがご自身と個人的な関係を築き、彼らの人生の中心にご自身を迎えることを望まれている」と強調。

それゆえに、イエスは弟子たちの真の考えを引き出すために、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられたが、イエスのその問いは、今日も、わたしたち一人ひとりに向けられている、と説かれた。

わたしたちは皆、御父が御子イエスをわたしたちに理解させるために与えられる光に照らされ、ペトロのように「あなたは、メシアです」と答えることもできるだろう、と教皇は述べつつ、一方で、イエスが苦しむしもべとして、侮辱され、排斥され、十字架にかけられるというその使命を聞き、わたしたちもペトロのように抗議する時、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られるに値するだろう、と話された。

「イエス・キリストにおいて信仰を告白することは、言葉だけに留まってはならず、神と隣人への愛を表す、選択、行い、生活によって、それを本物としなくてはならない。」

「イエスの弟子として従うには、『自分を捨て』(マルコ8,34)、すなわち利己的な驕りを捨て、自分の十字架を背負わなければならない」

このように述べた教皇は、御子に忠実に従った聖母マリアのように、わたしたちもイエスの道を歩み、神と兄弟たちのために寛大に自分の人生を捧げることができるようにと祈られた。

16 9月 2018, 15:42
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[クララ]神の動き[2018.9.18.オミリア]

《年間第24火曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[4分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺(かん)が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現われた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。(ルカ福音書7章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第24主日前晩ミサ説教(2018.9.15.)

《年間第24主日前晩》小郡教会聖堂で19時30分から行われたミサの説教[14分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【第二朗読】わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。(ヤコブの手紙第2章)

【福音】[そのとき、]イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと(マルコ福音書8章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2018.9.15.〜2018.9.30.)

★鳥栖教会の新しい駐車場は9月16日(日)から使用できる予定です。駐車場の利用方法については鳥栖教会のホームページをご覧ください。18日(火)か19日(水)午後3時から駐車場にラインを引きます。車止めも作ります。幼稚園駐車場はまだ完成していませんが、日曜日7時〜14時までは一部使えます。*駐車の際は警備員に一言お願いします。

★10月から12月の主日(日曜日)のミサは鳥栖教会8時30分〜、小郡教会11時からになります。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分からです。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。一度参加してみてください。

 

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キリストの十字架を観想、教皇、朝のミサで

2018年9月14日バチカン放送日本語課の記事より。

キリストの十字架を観想、教皇、朝のミサで

教皇フランシスコのサンタ・マルタ館の朝ミサから …… 2018年9月14日

9月14日、カトリック教会の典礼暦は、「十字架称賛」を祝った。

この日、教皇フランシスコは、バチカンのサンタ・マルタ館におけるミサで、イエス・キリストの十字架を観想された。

教皇は、キリスト者にとって、敗北のしるしである十字架は勝利のしるしであると強調。

十字架上でイエスの生涯のすべてが虚しくされ、イエスに従っていた人々のすべての希望が打ち砕かれたかのように見えても、わたしたちはイエスの十字架を見つめることを恐れてはならないと語られた。

教皇は、使徒聖パウロが「フィリピの信徒への手紙」(2,6-11)で、「神の身分でありながら…かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になり、…へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」キリストの姿を恐れず示していることは、試練にある時のわたしたちの心を照らし、十字架は勝利のしるしでもあることを思い出させてくれるものと話された。

神の子でありながら、自分を無にし、へりくだったイエスの、その十字架においてわたしたちは救われたと説く教皇は、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12,32)というイエスの言葉を思い起こされた。

14 9月 2018, 14:22
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[基山]悲しみの聖母[記][2018.9.15.オミリア]

《悲しみの聖母[記]》基山教会聖堂で7時から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。★基山教会は「悲しみの聖母」にささげられた教会です。

 《悲しみの聖母》基山教会聖堂内部

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[基山]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源とな[られたのです。](ヘブライ5章)

*福音朗読は、ヨハネによる福音書またはルカによる福音書のどちらかを用いる。

【ヨハネによる福音】[そのとき、]イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ福音書19章)

【ルカによる福音】[そのとき、イエスの]父と母は、幼子(おさなご)について言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。—あなた自身も剣で心を刺し貫かれます—多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ福音書2章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇「憐み深い者だけが、御父と似た者になれる」

2018年9月13日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「憐み深い者だけが、御父と似た者になれる」

教皇フランシスコのサンタ・マルタ館の朝ミサから …… 2018年9月13日

教皇フランシスコは、9月13日、お住まいのサンタ・マルタ館でのミサで、キリストの弟子として従うべき道について話された。

教皇は、この日の福音朗読箇所、「敵を愛しなさい」「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」とイエスが説く場面(ルカ6,27-38)を取り上げ、説教を行われた。

主は常に「山上の垂訓」などの教えや、いつくしみ深いその業を通して、「キリストの弟子の生き方」とはどうあるべきかをわたしたちにいつも示してくださると、教皇は話された。

特にこの日の福音で、イエスは、「敵を愛すること」「あなたがたを憎む者に親切にすること」「悪口を言う者に祝福を祈ること」「あなたがたを侮辱する者のために祈ること」を弟子たちに説いている。

教皇は、キリスト者は、争いを生む原因となる噂話や雑言の論理の中に入らず、迷惑を与える人々のために祈らなければならない、と話された。

敵を愛することをはじめ、これらの教えをキリスト者の生き方として掲げられた教皇は、こうした生き方ができない者は、キリスト者とは言えず、この世の霊と共に生きている、と語られた。

敵を悪く言うことの方が、確かに簡単であるが、キリスト教的論理は、その逆を行くものと教皇は強調。

「キリスト者は十字架の道に従い、やがては御父の子らとしてふるまうことができるようになる」

「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい、と神が言われるように、憐み深い者だけが、天の御父と似た者となれる」

と、このように説かれた。

13 9月 2018, 14:16
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[クララ]十字架称賛[2018.9.14.オミリア]

《十字架称賛[祝]》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

*第一朗読は、民数記またはフィリピの信徒への手紙のどちらかを用いる。

【第一朗読:民数記】[その日、イスラエルの民は旅の]途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿(はたざお)の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(民数記21章)

【第一朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙】[イエス・]キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2章)

*本田哲郎訳:キリスト・イエスは、神としての在り方がありながら 神と同じ在り方にこだわろうとはせず、自分を空け渡して奉仕人の生き方を取られた。イエスは見たところ他の人たちと同じであった。すなわち、姿はひとりの人にすぎないイエスが、自分を低みに置き、神の従属者として立たれた。それも死を、十字架の死を引き受けるまでに。だからこそ、神はキリストをたたえ上げ、あらゆる名に優る名をお与えになった。こうして、天上のもの、地上のもの、地の下のものがすべて、イエスという方を身に帯びて膝を折り、「イエス・キリストは『主』(神)である」と口をそろえて告白し、父である神を輝かし出す。

【答唱詩編】神のわざを思い起こそう、力ある不思議なわざ。

民よ、わたしの教えを聞け。わたしの語ることばに耳をかたむけよ。わたしは口を開いてたとえをかたり、過去のできごとの神秘を告げ知らせよう。耳で聞いて知ったこと、先祖がわたしたちに伝えたこと、神の誉れと力、その行われた不思議なわざを、わたしは子孫に隠さず、次の世代に語り告げよう。/それでも、彼らは罪をおかし、不思議なわざを信じようとしなかった。彼らの日々は吹き消され、そのいのちはにわかに絶えた。死が襲いはじめると、彼らは悔い改めて神をさがし求め、神がよりどころであることをおもい出した、すべてを越える神があがない主であることを

【アレルヤ唱】アレルヤ。アレルヤ。キリストよ、あなたを拝み、たたえよう。主は十字架によって世をあがなわれた。アレルヤ、アレルヤ。

【福音】[そのとき、イエスはニコデモに言われた。]「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「自我の束縛から解放され、愛することができる人に」教皇一般謁見

2018年9月12日バチカン放送日本語課の記事より。

「自我の束縛から解放され、愛することができる人に」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「十戒」中の、安息日をめぐる掟の考察を続けられた。

教皇フランシスコは、9月12日バチカンで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は先週に続き、「十戒」中の、安息日をめぐる掟の考察を行われた。

教皇は、旧約聖書の「出エジプト記」に記された「十戒」は、「申命記」の中でもほとんど同じ形で繰り返されているが、安息日を扱う3つ目の戒の説明においては相違する部分があると指摘。

「出エジプト記」では、安息日の理由として、天地創造を完成された主が七日目に休まれたことを挙げているのに対し、「申命記」ではその理由を、イスラエルの人々がエジプトでの隷属状態から主の御腕によって導き出されたことを記念するものとし、それゆえ、この日は奴隷も主人と同じように休むことができると記している点を示された。

奴隷は休むことができない状態にあるが、世の中には外的・内的な様々な形の隷属状態があると教皇は述べ、迫害や拉致など、様々な形の外的な強制がある一方で、心理的なブロックや、コンプレックス、性格上の限界など、内的自由がない状態があると話された。

教皇は、こうした外的、内的な隷属状態に置かれた人間は、自由でいることができるだろうかと問いつつ、聖マキシミリアノ・コルベ神父(1894-1941)や、グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿(1928-2002)のように、迫害の闇を光の場所へと変えた人々や、内的な弱さに苦しみながらも、神のいつくしみの中に安らぐことのできる人々の存在を思い起こされた。

「牢に入れられるよりも、心理的脅迫観念よりも、最も人を束縛するものは、自我(エゴ)の束縛である」と教皇は話し、「愛することができない人は、安らぎを知らない」と語られた。

「十戒」の安息日に関する3つ目の掟は、わたしたちが休日を守る中で罪からの解放を祝うようにと招いていると述べた教皇は、「主イエスはわたしたちを罪の内的隷属から解き放ち、愛することができる人間へと変えてくださる。真の愛こそ、真の自由である」と説かれた。

 

12 9月 2018, 15:09
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[クララ]唯一の神を信じている[2018.9.13.オミリア]

《年間第23木曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[2分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げ[ます]。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だといういことが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟に対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(1コリント8章)

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口(わるくち)を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬(ほお)を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らないものにも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れたもらえる。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである。」(ルカ福音書6章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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