月別アーカイブ: 2019年2月

[クララ]人のつまずきとなる罪[2019.2.28.オミリア]

《年間第7木曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[9分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸(か)けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろたままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ福音書9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「神のみ名がわたしたちの中で聖とされるように」教皇一般謁見

2019年2月27日バチカン放送日本語課の記事より。

「神のみ名がわたしたちの中で聖とされるように」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「主の祈り」の「み名が聖とされますように」という部分を考察された。

教皇フランシスコは、バチカンで2月27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

冬期の一般謁見は、主にパウロ6世ホールで行われるが、ローマはこのところ暖かい気温にに恵まれたことから、この日の一般謁見は、久しぶりに聖ペトロ広場で開催された。

教皇は謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「主の祈り」の「み名が聖とされますように」という言葉をめぐり、講話を行われた。

教皇は、「主の祈り」について、
「み名が聖とされますように」
「み国が来ますように」
「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」
という、「あなた=父である神」を中心に据えた、前半の3つの願いと、
「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」
「わたしたちを誘惑におちいらせず」
「悪からお救いください」
という、「わたしたち」を中心に据えた、後半の4つの願いの、
合わせて7つの願いから構成されていると説明された。

教皇はここに、すべてのキリスト教の祈りの特徴である、神の神秘、素晴らしさ、寛大さなど、神に対する観想の要素と、わたしたちが生きる上で必要なものを、率直に勇気をもって願う嘆願の要素の、二つを見出された。

キリスト教的祈りの最初の一歩は、わたしたち自身を神とそのみ摂理に託すことである、と教皇は強調。

それは「主よ、あなたはすべてご存じです。わたしの苦しみを聞いていただくまでもなく、あなたがそばにいてくだされば十分です。あなたはわたしの希望です」と言うことと同じである、と話された。

教皇は、イエスが山上の説教で「主の祈り」の内容を伝授された直後に、いろいろなことで「思い悩むな」と諭していることは、興味深いこと、と指摘。

イエスが、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るよう教えた後で、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(マタイ6,31)と言っていることは、矛盾に思われないだろうか、と問われた。

しかし、教皇は、これは矛盾ではないと述べ、キリスト者の祈りは御父に対する信頼の表現であるゆえに、わたしたちはまさにその信頼によって、不安や思い煩いなしに、必要なものを神に願うのである、と説かれた。

「み名が聖とされますように!」という最初の願いには、御父の素晴らしさ、偉大さに対するイエスの賛美のすべてと同時に、皆に神の真の姿を知り愛して欲しいという、イエスの望みが感じられる、と教皇は語られた。

また、ここには、神のみ名がわたしたち自身や、家庭、社会、世界の中で聖とされるようにとの祈りが込められている、と教皇は指摘。

わたしたちも聖化する神の愛によって変容され、世において神の聖性を証ししなければならない、と述べられた。

「祈りはあらゆる怖れを追い払う。御父はわたしたちをいつくしみ、御子は御腕をわたしたちに添えられ、聖霊は静かに世の贖いのために働かれる」と述べた教皇は、「わたしたちは不安の中でも、揺らぐことはない」と話された。

27 2月 2019, 18:55
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未成年者保護、虐待根絶の効果ある戦いはこれからだ(VaticanNews 解説)

「カトリック・あい」より

未成年者保護、虐待根絶の効果ある戦いはこれからだ(VaticanNews 解説)

(2019.2.24 Vatican News Andrea Tornielli=バチカン暫定報道局長)

(解説)

 未成年者保護のための4日間の会議が24日、教皇フランシスコの閉幕挨拶で終わった。だが、この問題に対するさらなる効果的な戦いに関する仕事はまだ終わらない。

 「この後ろに、悪魔がいます」-教皇は閉幕挨拶の中でこのように即席の言葉を付け加えた。バチカンのサラ・レジーナでのミサの終わりに、祭服を付けたままで、この忌まわしい事柄について、大胆で現実的なやり方で話された。「このような痛々しい問題の中に、私は、小さき者たちの純真な姿さえ容赦しない邪悪な者の手を見ます。このことが私にヘロデのことを考えさせます-彼は権力を失うことへの恐怖に突き動かされ、ベツレヘムにいる全ての子供たちの殺害を命じました」。

 教皇はこれまでにも、海外訪問途上の機上でのジャーナリストたちとのやり取りの際に、性的虐待を”黒ミサ”と対比して語られたことがある。そして「この後ろに、悪魔がいる」、邪悪な者の手がある、と話された。だが、このように言われることは、全ての説明をお忘れになったり、個々の個人的な責任と組織全体の責任を小さくしたりすることを意味しない。もっと深い文脈に置くことを意味するのだ。

 挨拶で、教皇は、教会だけでなく、世界で起きている虐待について話された。だが、これには、教会と関係する場でなされた虐待の重大さを減殺する意図を全く持たない父親であり司牧者の懸念を示そうとしたものだ。なぜなら、この問題の忌まわしい、非人間性は、「教会において、(教会外よりも)はるかに重大で恥ずべきもの」となるからだ。

 信仰生活のあり方を教えてもらおうと信頼して司祭に託した自分の娘や息子が、体も心も取り返しがつかないほどボロボロになって帰って来たのを、親たちは目の当たりにする… 「怒りを露わにするのはもっともなことです… 教会は、神の憤りをそこに見ます-偽者の聖職者に裏切られ、侮辱された親たちの中に」と教皇は語られている。

 教皇は閉幕の挨拶で、福音を宣べ伝えることに人生を捧げている-小さき者たち、自分で身を守ることのできない者たちを教育し、保護し、イエスに倣うことに自身の命をゆだねている-多くの司祭、男女修道者に感謝を示した。邪悪さの底知れない淵に直面しても、善きものを私たちに忘れさせることがない。それははちきれんばかりの無益な自尊心ゆえではなく、模範としてどこを見、誰に倣うかを知る必要のゆえだ。

 しかし、バチカンでの今回の会議は、単に”腹に浴びせた一発のパンチ”ではなかったー参加したちに、邪悪と罪の破壊的な行為、そして赦しを乞い、神の恩寵の助けを願うことを強く意識させた。そしてまた、過去数日の間に浮上してきたものに、効果的に実行することが可能な選択肢をもって、具体的な形を与えようとする硬い意志を証明した。

 罪の重大さの認識と、今回の会議を特徴づけた助けを願う天への止むことのない訴えが、刷新された実際的な決意を伴って、教会の環境が未成年と傷つきやすい成人たちにとってますます安全なものとなることを確実にするように。この決意が社会の全ての他の場所にも広がっていくという希望とともに。、

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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自発教令発布、規則書の配布、専門家の支援チーム編成、フォローアップ会議ー最終会見で具体策発表

「カトリック・あい」より

自発教令発布、規則書の配布、専門家の支援チーム編成、フォローアップ会議ー最終会見で具体策発表

(2019.2.24 Vatican News)

 「教会における未成年者保護」をテーマとする全世界の司教協議会会長と主要修道会総長などによる”サミット” は24日夕、バチカンでの最終記者会見で幕を閉じ、「児童を保護し、虐待を戦うため具体的に、決意をもって取り組む」ことを宣明した。

 ”サミット”開催中の記者会見は21日から毎日行われ、今回が4回目となったが、記者団からの質問でとくに強調されたのは「今度は何?」-会議の開会当初、特に「未成年者たちの保護について教会を助ける『具体的な』取り組みを考え出すように」と、教皇フランシスコから指示を受けた出席者たちの対応について、期待は高かった、それがどうなったのか、だった。

 そして、「今度は何?」の質問に対する4つ目の答えについて、”サミット”の準備・運営に当たって来た組織委員会が、バチカンの関係部署のトップたちと会議を持ち、今回の”サミット”を受けた今後の対応と「今度は何?」との問いかけへの対応についても議論することになる、と説明した。

*メディアとの関係は

 今回の”サミット”は世界中の注目を引き、メディア関係者による取材、報道も活発にされた。バチカンの広報の部署のパオロ・ルッフィーニ長官はその働きに感謝する一方で、「真実を探求し、伝える」とうジャーナリストの役割も強調。「偏見を持たずに人の話を聴く」ことの重要性を指摘し、「皆が話をし、誰もが聴かないなら、コミュニケーションは成立しない」と述べていた。記者会見で長官と他の出席者たちは、メキシコ人ジャーナリストのバレンチナ・アラズラキ女史が今回の会議で、「全ての人に対するコミュニケーション」と題して「透明性」について基調報告をし、”勇気”ある貢献をしたことを讃えた。

 会見で、アラズラキ女史は、この問題で記者たちに「教会と共に働く」ように訴える一方で、司教たちに、「ノー・コメント」と絶対言わないように、「タイムリーで公正な情報」をメディアに提供することを守るように、と注文を付けた。

*”サミット”の感想-女性の貢献の大きさ、教皇の閉幕スピーチが示した決意‥

 「未成年者保護」の集まりの”収穫”は何か、と聞かれたボンベイ大司教のオズワルド・グラシアス枢機卿は「それは、タイムリーで、有益で、必要なもの」と答え、自身と仲間の司教たちは「虐待の問題への対処は”カトリック教会の優先事項”だ」という広く共通した理解と自覚をもって帰国することになった、と説明。また会議における女性の貢献を讃え、「女性的な洞察力と物の見方」の価値を強調した。

 マルタのチャールズ・シクルーナ大司教はこの4日間の会議の印象について語り、特に、教皇の閉幕のスピーチ、虐待を隠蔽を「筆舌に尽くしがたい犯罪」とされたことに心を打たれた、とし、「もう後戻りはできません」と言明した。また、虐待被害者たちが会議に出席したことは、この会議での重要な経験となったが、「私たちは、被害者の声を聴くことができないのです」と付け加えた。さらに大司教は「その日の終わりに心の変化がある、それがどれほど重要か」と強調し、自分たちには正しい動機が必要で、そのために、会議で「新鮮な空気」を吸えるようにしてくれた女性の声を含め、異なる声を聴く必要がある、とも指摘した。

 ”サミット”の組織委員会の委員で教皇庁立グレゴリアン大学の児童保護センターの所長を務めるハンス・ゾルナー神父(イエズス会士)は「10年に及ぶ旅の質量ともに豊かな展開は今後も続くでしょう」と述べ、姿勢は変化し、人々は姿を変え、「家に戻り、何かをしよう」という強い決意を抱いた、ことを強調した。そして、まさに今、この”サミット”で自分たちがしたことに焦点を絞り、「問題の根源全体」に取り組む必要がある、としたうえで、今回の会議の3日間の主題ー責務、説明責任、透明性-は問題と解決の両方を反映している、とも語った。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年度四旬節メッセージ、被造物と人間の関係テーマに

2019年2月26日バチカン放送日本語課の記事より。

2019年度四旬節メッセージ、被造物と人間の関係テーマに

教皇フランシスコは、2019年度の四旬節メッセージを発表された。

カトリック教会の典礼暦は、3月6日の「灰の水曜日」と共に、復活祭前の準備期間「四旬節」に入る。

「四旬節」とは「灰の水曜日」に始まり、「復活の主日」まで、日曜を除いた40日間にわたる期間をいう。

この間、キリストが公生活に入る前に、荒野で40日間の断食を行ったことを思い起こし、悔悛、祈り、断食、節制、施し、愛徳の実践を通して、キリストの復活の記念によりよい形で与る準備をする。

教皇フランシスコは、2019年度の「四旬節」のためにメッセージを発表された。

今年のメッセージのタイトルは、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(「ローマの信徒への手紙」8,19)。

使徒聖パウロの言葉を冠したこのメッセージで、教皇は、わたしたちの地上の人生においてすでに働いている救いの神秘は、ダイナミックなプロセスをもって、すべての歴史と被造物にも及ぶものであると述べている。

「もし人間が神の子として、また贖われた者として生き、聖霊に導きのもとに、心と自然の中に刻まれた掟を始めとする、神の掟を認め、実践するならば、人間は被造物に対しても、その贖いのために協力しながら、善を行うことができるだろう」と教皇は記している。

一方で、教皇は、わたしたちが神の子として生きないならば、わたしたちは隣人や他の被造物、さらに自分自身に対して破壊的な態度をとり、人間のあり方、自然に対する尊重を侵してしまうと警告している。

教皇は、すべての悪の根源である罪は、神や、人々、被造物との交わりを断ち切るもの、と指摘。

「罪は神との交わりを絶ちながら、人間と環境との調和ある関係にもひびを入れ、こうして園は荒れ野となった(参照:創世記3,17-18)」

「その罪は、人間に自分を創造の神、絶対的な主人と信じさせ、自然や人々を創造主の望みとは異なる、自分の利益のために使うようにさせた」

「神の掟を捨てた時、愛の掟は、弱者に対する強者の掟に変わってしまった」

と、教皇は、このように述べている。

すべての被造物は、わたしたちと共に「滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるよう」(参照:ローマ8,21)招かれている、と説く教皇は、この四旬節をそのための回心の機会とし、特に断食・祈り・施しを通して、個人・家庭・社会生活の中で、過ぎ越しの神秘をより深く具体的に生きるようにと呼びかけている。

26 2月 2019, 18:57
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[クララ]囲い込んでしまう[2019.2.27.オミリア]

《年間第7水曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[3分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」(マルコ福音書9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]子どもを抱きしめたイエス[2019.2.26.オミリア]

《年間第7火曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[10分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】…。昔の人々のことを顧みて、よく考えてみよ。主を信頼して、欺かれた者があったか。主を敬い続けて、見捨てられた者があったか。主を呼び求めて、無視された者があったか。主は、慈しみ深く、憐れみ深い方、わたしたちの罪を赦し、苦難のときに助けてくださる。(シラ書第2章)

【福音】[そのとき、イエスと弟子たちは]ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ福音書9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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未成年者の保護めぐる会合の閉会ミサ、教皇「教会は虐待という犯罪と決然と戦う」

2019年2月24日バチカン放送日本語課の記事より。

未成年者の保護めぐる会合の閉会ミサ、教皇「教会は虐待という犯罪と決然と戦う」

バチカンで開かれた、未成年者の保護をめぐる司教会合は最終日を迎え、閉会ミサと共に、教皇フランシスコによる講話が行われた。

「教会における未成年者の保護」をテーマに、2月21日から24日まで、世界の司教協議会会長を招集し、バチカンで会合が行われた。

3日間の午前と午後にわたる討議の後、2月24日、会合は最終日を迎えた。

同日朝、教皇フランシスコは、バチカン宮殿の王宮の間で、司教らと共にミサを捧げた。

ミサ終了後、教皇は閉会の講話を行われ、この中で未成年者虐待の悪と対峙し、それと闘う教会の姿勢を示された。

教皇はこの会合で、未成年者への性的虐待がもたらす深刻な傷は、残念ながらすべての文化圏・社会に広がっていることを確認した、と述べた。

過去にタブーと考えられ、知っていても話されなかったこの問題が、比較的最近になりようやく、世論の関心の変化のおかげで、体系的な研究対象として取り上げられるようになった、と話された。

今日、様々な国際機関や各国の組織がまとめた未成年者の性的虐待についてのデータは、しばしば低く見積もられ、未だこの現象の本当の広がりを表すには至っていないと教皇は述べ、家庭内で起きている虐待の多くが明るみに出ていないことを、その理由として挙げられた。

教皇は、未成年者への性的虐待を考える上で、デジタル社会における子どもたちの尊厳の問題や、買春ツアーの犠牲となる子どもたちの問題にも触れられた。

このような非人間的現象が世界レベルで広がる中、教会におけるこの問題は、その道徳的権威と倫理的信頼性に反するものとして、いっそう重大で、恥ずべきことであると、教皇は強調。

人々の魂を救いに導くために神から選ばれ、自らを奉献した者が、自分の人間的弱さや病的なものに打ち負かされ、無垢な子どもたちさえ犠牲にしてしまう、この虐待問題に、わたしたちは悪の手を見ることができる、と語られた。

今日、教会は、深刻な虐待を規律に沿った対策や、民法裁判・教会裁判をもって防ぐだけでなく、教会の内外においてこの現象と決然と戦わなくてはならない、と教皇は述べた。

教皇は、教会でただ一つの虐待が明らかになったとしても、それ自体が恐ろしいことであり、その件に対し最大の誠実さをもって取り組まなければならないと呼びかけられた。

「人々の正当な怒りの中に、教会は、不正直な奉献者に裏切られた神の怒りを見ている」「彼らの中に父性と霊的導きを見るかわりに、非情な者を見出した子どもたちの沈黙の叫びは、偽善と権力に麻痺した心を震わせるだろう」と、教皇は話された。

虐待問題と戦うには、良い意味で科学と社会が提供するすべての手段をもって取り組む必要があると教皇は述べつつ、同時にイエスが教える、悪に勝つための霊的態度、すなわち、謙遜、良心の糾明、祈り、償いなどの大切さを指摘された。

教皇は、世界保健機構が指導し、10の国際機関のグループが作成した、「児童を暴力から守るための7項目の対策」に言及。

このガイドラインを参考に、教会もここ数年、教皇庁未成年者保護委員会を通し、「子どもたちの保護」「真摯な取り組み」「真の浄化」「司祭候補者の育成」「司教協議会のガイドラインの強化と見直し」「虐待被害者への寄り添い」「デジタル社会における児童の保護」「買春ツーリズムとの闘い」の、8つの視点から取り組みを進め、これらが今回の司教会合の指針ともなったことを紹介された。

この悪を教会の浄化のための機会に変容させることができるように、と願われた教皇は、虐待という犯罪が地上から消えるまで、あらゆる方法で戦っていくよう、司教らを励まされた。

24 2月 2019, 19:17

より詳しい内容を「カトリック・あい」で読むことができます。

「児童虐待根絶の”総力戦”に教会の総員の参加を」”サミット”閉幕ミサで教皇が訴え

(2019.2.24 VaticanNews)

 教皇フランシスコは24日、「教会における未成年者保護」サミットの閉幕ミサを終えるに当たっての挨拶で、性的虐待の”災難”を文脈を追って説明され、「未成年者に対する性的虐待、その他の虐待に対し、総力を挙げて戦う」よう、強く訴えられた。

「児童虐待の根絶へ、総力戦に教会の総員/

*児童虐待の悪を根こそぎするために、共に働く時が来た

 「児童虐待という悪を根こそぎにする為に、共に働く時が来ました」と話し始められた教皇は、「過去の過ちとメディアの圧力ゆえに罪の意識によって引き起こされた”正義主義”と、重大な犯罪の原因と影響に対処するのに失敗する”自己防衛”という、二つの極端な行為を避け、全ての価値の正しい均衡を図り、統一した指針を提供する時が来たのです」と言明された。

 そして、教会指導者たち、主に世界の司教協議会の会長たちに対して、「カトリック教会が虐待問題で目指すべきは、彼ら子供たちがどこにいようとも、虐待され、搾取され、忘れられた彼らの声を聴き、目を配り、保護し、世話をすること」とされ、その目的を達成するために、「教会は、イデオロギー的な争いと、小さき者たちが経験した大変な悲劇を様々な利益のためによく利用するジャーナリストの慣行を克服せねばなりません」と強調された。

 また、教皇は、児童性的虐待を世界的な文脈に置き、”サミット”での作業は「未成年者たちへの性的虐待という深刻な“災難”は、歴史的に見て、あらゆる文化と社会に広がった現象だ、ということを、私たちに改めて認識させました」とされ、今日においてさえも、「この現象が実際にどこまで広がっているのか本当のところを知ることは難しい」、なぜなら、性的虐待、特に家庭内で起きた数多くの案件は、しばしば表に出されることがないからです」と指摘された。

*世界に広がった忌まわしい出来事は教会において一段と深刻になっている

 現在入手可能なデータは、「私の見方では、なお実態の一部分に留まっている」とし、「表に出た最初の真実は『身体的、性的、あるいは感情的な暴力の行為である”虐待”を働いたのが、主に親、親類、幼児結婚した花嫁の夫、コーチ、そして教師たち』だということです」とも語られた。

 教皇は、「私たちはこのように普遍的な問題に直面している。世界のあらゆる所で悲劇が起こり、誰でもが影響を受けている」とされるとともに、「私たちがなおかつ、明確にする必要があるのは、全体として私たちの社会に深刻な影響を与えながら、こうした悪は、教会内でなされる時、その非道さを減じていないということ」と警告。世界に広がった現象の忌まわしさは、教会において、一段と深刻で恥ずべきものになってきている。教会の道徳的権威、倫理的信頼性とは、全く相容れなくなっているのです」と危機を訴えられた。

 そして、「カトリック教会は、その使命-小さき者たちを飢えた狼から守るように福音を説くこと-の核心に打撃を与える、このような悪と戦うように呼ばれている、と感じています」とされたうえで、「もしも、教会で、たった一件でも虐待-それ自身が残虐行為を意味するものーが明らかになったなら、極めて深刻な問題となります」と指摘。未成年に対する性的虐待という現象は”権力”を考えることなしには理解できない」「なぜなら、それは、常に権力の濫用の結果だからです。それはまた、少年兵、児童買春、飢えに苦しむ子供たち、人身売買の犠牲者、戦争の犠牲となる子供たち、難民の子供たち、堕胎された子供たち、その他もろもろの形で表される”別の形の虐待”にも見ることができます」と語られた。

*8つの危機に注意-真理から離れ、真の解決ができないままにならぬように

 しかし、「このようなあらゆる残酷さの前に、権力、お金、誇り、傲慢の”神“”に対する子供たちの偶像崇拝的な犠牲-経験的な説明だけでは十分ではありません」とされ、経験的な説明は、一つの説明を提供することができるが、それは「私たちに意味を与えることはできない」。それなら、「何が、このような犯罪的な現象の存在を表す経験的な”意味”なのでしょうか」と問いかけ、「人間的な広さと深さに照らしてみると、それは、悪の霊の現代的なしるし以外の何ものでもありません」と断言し、「もしも、私たちがこのことを考慮に入れることに失敗すれば、私たちは真理から遠く離れ、真の解決ができないままになる」と警告した。

 さらに、教皇は「私たちが常識、科学、社会が提供する実際的な尺度を使わねばならないのと同じく、私たちは現実を見失ってはなりません。主ご自身が教えてくださった霊的な手段ー謙遜、自己究明、祈り、痛悔ーを用いる必要があります… それが、悪の霊に打ち勝つ唯一の方法なのです」と言明。また、バチカンの未成年者保護委員会の業績と今回のサミットの貢献とともに、世界保健機関(WHO)の指針の下でまとめられた”最善の措置”を念頭に置いて、「前進する教会は、とくに危機の8つの側面に注意を払うことになるでしょう。それは、子供たちの保護、非の打ち所がない真剣さ、真の浄化、編成、司教協議会による指針の強化と見直し、虐待された人々への寄り添い、デジタルの世界、そしてセックス・ツーリズムです」と教会の今後について語られ、「教会は、そうした罪を犯す者たち誰に対しても、正義を行うために、あらゆることをする努力を惜しんではなりません。教会は、未成年者に対するいかなる虐待について口をつぐんだり、真剣に扱わなかったり、というようなことを、決してしてはなりません」と厳しく注文を付けた。

*誠実に務めを続ける聖職者、信徒に感謝-危機を”悪”を流し去る機会にしよう

 こうした一方で、教皇はまた、「同僚の一部の恥ずべき行為」にもかかわらず、「主に誠実に、全面的に仕えている全ての司祭、男女の聖職者たち」、「独身性に忠実であるだけでなく、一部の者の起こした恥ずべき事態によって一層困難になっている聖職者としての務めを遂行している方々」に感謝を表明し、また、「自分たちの司牧者の善良さをよく知り、彼らのために祈り、支えて続け」ている信徒たちに対しても感謝された。

 最後に、教皇は、「こうした悪を洗い流す機会に変えること」の重要性を強調。十字架の聖テレサ・ベネディクタ(ユダヤ人のカルメル会修道女で哲学者。ナチスの迫害で殉教した)を取り上げ、「確かに、世界の歴史における決定的な出来事は、歴史の本には書かれることの無い人々によって必ず影響を受けてきました… 神の聖なる、誠実な民、日々の沈黙の中で、沢山の形とやり方で『主は決して見捨てられず、ご自分の子供たちの変わらぬ、そして多くの場合に、苦痛に満ちた奉献を支えられる』ということを”愚直な”希望をもって、行動で示し、証明し続けています」「虐待の被害者たちに、聖なる母の教会の民に、そして全世界に、私たちが示すことのできる最善の結果、効果的な解決は、個人的な、そして全体の変革ー学び、聴き、もっとも傷つきやすい人々を助け、守る謙遜な振る舞いです」と励まされた。

 そして、このように締めくくられたー「性的な、そしてその他の未成年者に対する虐待との、全ての権威者と個人が参加しての総力戦を心から訴えます。私たちは、この地球の表から消し去らねばならない忌まわしい犯罪と相対しているのです。これは、家庭や私たちの社会の様々な場で隠されている多くの被害者たちの要請なのです」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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未成年者の保護めぐる会合:教皇と司教らによる共同回心式

2019年2月23日バチカン放送日本語課の記事より。

未成年者の保護めぐる会合:教皇と司教らによる共同回心式

教皇フランシスコは、未成年者の保護をめぐる会合に出席の司教らと、共同回心式をとり行われた。

「教会における未成年者の保護」をテーマにした、バチカンでの4日間の司教会合は、2月23日、後半に入った。

この日夕方、教皇フランシスコと参加司教らは、バチカン宮殿の王宮の間で、共同回心式を行った。

教皇は共同回心式の冒頭で、「真実を話す勇気と、罪のあるところを認める叡智」をいつくしみ深い神に願い、「わたしたちを誠実な悔悛で満たし、赦しと平和をお与えください」と祈った。

この式の中では、一人の虐待の被害者が、虐待という「一個人が体験しうる中でも最も重大な侮辱」の苦しみを語った。

そして、常に一つの幻影につきまとわれ、フラッシュバックを見続けなくてはならない被害者の「孤独」と「二重の人生」について話した。

被害者の重い証言を受け止めた後、教皇は、この3日間の話し合いを振り返りながら、各地の教会の状況と自分たち自身の良心を真剣に問いただすよう皆を招き、不正義を乗り越え、託された人々に正義を行う恵みを祈り求めた。

この式で、ガーナ司教協議会会長、フリップ・ナーマ・タマレ大司教は、今日の教会の状況を、福音書の「放蕩息子のたとえ」に重ねて講話を行った。

ナーマ大司教は、「わたしたちは託された信頼を裏切り、希望を破壊し、人々は残忍に心身をむしばまれた」「わたしたちは救いのために働くことを任されたにも関わらず、司教団の兄弟たちは不動のまま、争いを避けて視線をそらし、教会の闇と向かい合うことをしなかった」と述べた。

福音書の放蕩息子がすべてを失ったように、今日、教会が人々の信頼を大きく損なったことは驚くに当たらない、と述べた大司教は、これを嘆いていないで、わたしたちにこれまでとは違う方法で何ができるかを、自問することが大切、と強調。

「『自分は個人的に何も悪いことをしていない』と、誰も言うことはできない。わたしたちは(司教の共同体において)兄弟であり、自分だけの責任を負えばよいのではなく、兄弟であるメンバーの、そして共同体そのものの責任をも負わなければならない」と訴えた。

23 2月 2019, 20:00
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未成年者の保護めぐる司教会合:第3回ブリーフィング

2019年2月23日バチカン放送日本語課の記事より。

未成年者の保護めぐる司教会合:第3回ブリーフィング

「教会における未成年者の保護」をめぐる司教会合が続く中、3回目のブリーフィングが行われた。

「教会における未成年者の保護」テーマの司教会合3日目、会場のバチカン・シノドスホールに近い、アウグスチノ教父学研究所で、第3回目のブリーフィングが行われた。

このブリーフィングには、同日、会合の総会で発表を行った、ナイジェリア出身、聖なる幼きイエス会の総長のSr.ベロニカ・オペニボが出席。たとえ、それぞれの教会が置かれた環境は異なっても、皆が「沈黙の文化」と闘う必要があると述べた。

シスター・オペニボは、例えばアフリカは欧米に比べて、ある種のテーマについて自由に話す環境はないが、それにも関わらず、今、少しずつではあるが、勇気をもってこの問題を訴える人が出始めている、と報告した。

この会合で司会を務めるフェデリコ・ロンバルディ神父は、虐待を明るみに出すという意味で、どのように行動し、誰のところに行くべきかを示す、明確な規則や指導書の必要が、緊急事項として、会議の中で繰り返し取り上げられた、と話した。

また、同様に「訴えのための窓口」「相談窓口」のようなものを、すべての司教協議会が持つべきということが話された、と語った。

教皇庁広報省のパオロ・ルッフィーニ長官は、会合のグループ別の討議では、今日の性に関する情報や社会の風潮が、青少年の性や愛情をめぐる考えや人間的成熟に深い影響を与えている点にも注意が向けられた、と述べた。

さらに、グループ別討議では、虐待の被害者ならびその家族全体の癒しの必要が指摘されたほか、未成年者の保護について対策が進んでいない国を助けるために、一種の「姉妹教区」を作り、支援するなどのアイデアも出された、と述べた。

23 2月 2019, 18:02
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