月別アーカイブ: 2019年9月

[小郡]年間第25主日前晩[2019.9.21.]

《年間第25主日前晩》小郡教会で19時30分から行われたミサ典礼における説教[9分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「《ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞(ものご)いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢(かしこ)くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。》ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任(まか)せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなえれば、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカによる福音16章)

本田哲郎訳:イエスは弟子たちに言った。「ある金持ちがいて、一人の管理係を置いていた。この管理係が財産を浪費していると告げる者があった。金持ちは管理係を呼んで、『おまえについてこう聞いたが、どういうことなのだ。管理の明細を出しなさい。もうおまえに管理は任せられない』と言った。そこで管理係は考えた。『どうしたらいいだろう。主人はわたしから管理のしごとを取りあがるつもりだ。土方をするのは力がない、もの乞いをするのははずかしい。そうだ、何をすればいいか、分かった。管理のしごとからはずされたときに、みんなが家に迎えてくれるようにしておけばいいのだ』。そこで管理係は、主人に負債のある人たちを一人ずつ呼んで、最初の人に、『うちの主人に、どのくらい借りがありますか』と言った。その人が、『油を百たる』と言うと、『これがその証文です。座って、いそいで五十と書き直しなさい』と言った。つづいて、管理係はほかの人に、『あなたはどのくらい借りがありますか』と言い、その人が、『小麦を百袋』とこたえると、『これがその証文です。八十と書き直しなさい』と言った。主人は、不正を働いたこの管理係を、よい感性で対処したと、ほめた。じつに、世間の人たちは仲間に対して、光の子(宗教者)たちよりもよい感性を持っている」。「それゆえ、言っておく。あなたたちは不正にまみれた富で、自分のために友人をつくりなさい。富がつきたとき、友人たちが永遠のすみかに迎えてくれるのだ。ごくささいなことに誠実に対処する人は、大きなことにも誠実に対処し、ごくささいなことに不正を働く者は、大きなことにも不正を働くものだ。だから、不正にまみれた富について、あなたたちが誠実に対処しないなら、だればほんものの宝をあなたたちにゆだねるだろうか。他人のものについて、あなたたちが誠実に対処しないなら、だればあなたたち自信のものになるものを、あなたたちに与えるだろうか。家の使用人はだれも、二人の主人に仕えるわけにはいかない。一人を憎んでもう一人を大切にするとか、一人に傾倒してもう一人を見下すとかするものだ。あなたたちは、神に仕えながら富にも仕えるというわけにはいかないのだ」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2019.9.21.〜2019.10.6.)

9月までの主日ミサ時間は以下のとおりです。前晩(土曜日の夜)の主日ミサは毎週、小郡教会19時30分からです。

小郡教会8時30分〜  鳥栖教会11時〜

9月1日(日)は《被造物を大切にする世界祈願日》でした。今年はこの日から10月4日(金)のアシジの聖フランシスコの記念日まで《被造物の季節》にすると教皇フランシスコは先日発表されました。環境問題は緊急の課題です。具体的に地球を大切にすることを考え、実行に移していきましょう。

教皇フランシスコの来日が正式に発表されました。来日のテーマは《すべてのいのちを守るため:PROTECT ALL LIFE》です。

幼稚園の運動会は24日(火)に延期されたため9月22日(日)の8時30分の小郡教会の主日ミサはあります。鳥栖教会の11時のミサは山元神父が司式します。21日(土)小郡での19時30分の主日前晩のミサはあります。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

 

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教皇「医学は、全人類と一人ひとりの人間に対する奉仕」

2019年9月20日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「医学は、全人類と一人ひとりの人間に対する奉仕」

教皇フランシスコは、イタリアの外科医会・歯科医師会連盟の関係者とお会いになった。

教皇フランシスコは、バチカンで9月20日、イタリアの外科医会・歯科医師会連盟の関係者とお会いになった。

この出会いで教皇は、「医学とは人命に対する奉仕である」と強調。心と体という総体においてのみならず、個人と社会という側面において人間と関わる医学は、「全人類に対する奉仕であると同時に、一人ひとりの人間に対する奉仕である」と話された。

教皇は、医師たちは病気を医学上・診断上の事実内に留めることなく、患者という一人の人間の総合的な状態へのビジョンを持つよう招かれている、と語った。

医学と社会のいかなる変化を前にしても、医師は一人ひとりの病者の尊厳とその脆弱な状態から目をそらすことがあってはならず、重篤な患者をはじめ、すべての人に、良心と知性、心をもって、寄り添わねばならない、と教皇は説かれた。

そして、このような態度を持つことで、起こりうる患者の死への願望を助けるための自殺幇助や安楽死手段の提供への誘惑を退けなくてはならない、と話された。

教皇はこの集いで、医療関係者が負う倫理的側面を思い出させながら、その倫理の基本を、聖ヨハネ・パウロ2世が回勅「いのちの福音」で今日もなお意義あるものとして言及した、「ヒポクラテスの誓い」の中に示された。

20 9月 2019, 16:18
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[クララ]生まれたときも死ぬときも何も持たず[2019.9.20.オミリア]

《年間第24金曜日:[記]聖アンデレ金と同志殉教者》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[9分]を聴くことができます。

*聖アンデレ金と同志殉教者:十七世紀初め、何人かの信徒の努力によって韓国にキリスト教がもたらされた。この勇敢で熱心な教会は、一八三六年まで信徒によって指導されはぐくまれ、その年に初めてフランスからパリ外国宣教会の司祭たちがひそかに入国した。一八三九年、一八四六年、一八六六年に迫害が起こると多くの人が殉教したが、その中から百三名が一九八四年に列聖された。この中で特に秀でているのは、最初の韓国人司祭で司牧の心に燃えたアンデレ金大建(キム・テゴン)と、優れた使徒的活動を行った信徒パウロ丁夏祥(チョン・ハサン)である。殉教者たちの大部分は、既婚者、未婚者、老人、壮年、青年、少年など勇敢な男女の信徒であった。彼らの尊い殉教は、韓国教会の貴重な初穂である(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[愛する者よ、]これらのことを教え、勧(すす)めなさい。異(こと)なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢(こうまん)で、何も分からず、議論や口論に病(や)みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷(ちゅうしょう)、邪推(じゃすい)、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐(くさ)り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです。もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑(ゆうわく)、罠(わな)、無分別(むふんべつ)で有害なさまざまの欲望に陥(おちい)ります。その欲望が、人を滅亡(めつぼう)と破滅(はめつ)に陥(おとしい)れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和(にゅうわ)を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。(1テモテ6章)

【福音】[そのとき、]イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令(かれい)クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ福音書8章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]信頼して歩みを起こしたから[2019.9.19.オミリア]

《年間第24木曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[愛する者よ、]あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範(もはん)となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念(せんねん)しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(1テモテ4章)

【福音】[そのとき、]あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏(せっこう)の壷(つぼ)を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻(せっぷん)して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻(せっぷん)の挨拶(あいさつ)もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦(ゆる)されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。(ルカ福音書7章)

本田哲郎訳:さて、一人のファリサイ派の人がイエスに、いっしょに食事をしてくれとたのんだ。それでイエスは、そのファイリサイ派の人の家に入り、食卓についた。そこに、一人の女性がいた。この町の「道をふみはずした女」だった。彼女は、イエスがファリサイ派の人の家で食事の席についていることを知って、香油の壷(つぼ)をたずさえて来て、泣きながら、イエスのうしろ、足のかたわらに立ち、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻(せっぷん)しては香油をぬっていた。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、腹の中でこう言った。「この人がもし預言者なら、自分にすがりついている女が何者で、どういう類(たぐ)いの者か、分かるはずだ。この女は『道をふみはずした者』なのだ」。そのとき、イエスはかれに向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言った。かれは、「導師、おっしゃってください」と言った。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は二百五十万円、もう一人は二十五万円の借りだった。二人とも、返す手だてがなかった。それでその金貸しは、二人とも帳消しにしてやった。ところで、二人のうち、どちらがよけいに、その人を大切にするだろうか。」シモンは、「多く帳消しにしてもらったほうだと思う」とこたえた。イエスは、「そのとおりだ」と言った。そして、女性のほうをふりかえって、シモンに言った。「この女性を、あなたは気にしているのか。わたしがこの家に入ったとき、あなたは足をすすぐ水もくれなかった。けれど、この女性は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしにあいさつの接吻もしなかった。けれど、この女性は、わたしがここに入ってきてからずっと、わたしの足に接吻をくりかえしている。あなたはわたしの頭にオリーブ油もぬってくれなかった。けれど、この女性はわたしの足に香油をぬってくれたのだ。このことから、多く道をふみはずしたこの女性はゆるされている、と言えるのだ。人をとても大切にしたからだ。しかし、ゆるしてもらうことの少ない人は、あまり人を大切にしようとしない」。そして、イエスはその女性に、「あなたが道をふみはずしたことはゆるされている」と言った。すると、いっしょに食卓についていた人たちは、腹の中で、「道をふみはずしたことまでゆるすこの人は、いったい何者だ」と思いはじめた。イエスは彼女に言った。「あなたが信頼してあゆみを起こしたそのことが、あなたを救った。安心して行きなさい」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「神から出たものは、滅びない」教皇一般謁見

2019年9月18日バチカン放送日本語課の記事より。

「神から出たものは、滅びない」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われた。

教皇フランシスコは、バチカンで9月18日、水曜恒例の一般謁見を開催された。

ここ数日、ローマには再び夏の暑さが戻った。青空の下、聖ペトロ広場では教皇と巡礼者らとの喜びに満ちた出会いが行われた。

謁見中のカテケーシスで、教皇は「使徒言行録」をテキストに、カテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。

この日は、「使徒言行録」5章にある、使徒たちを殺そうとする者たちに対する、律法学者ガマリエルの思慮深い言葉と態度(5, 34-35.38-39)がテーマとなった。

聖霊降臨以来、使徒たちは自分たちだけで固まっている臆病な状態から抜け出し、聖霊の力を得て、驚くほどの勇気を得ていた、と教皇は述べ、使徒たちのこの大胆な行動力は、ユダヤ教界を揺るがすまでになり、脅威を感じた人々は使徒たちを殺そうと考えた、と、当時の状況を振り返えられた。

しかし、人々のこのような怒りや衝動を前に、民衆から広く尊敬されていた律法学者で、聖パウロの師でもあったガマリエルは、慎重で異なる意見を唱えた。

ガマリエルは、かつてメシアであるかのように噂された人々の名を挙げながら、彼らが最初は民衆を惹きつけながらも、最後には滅びたように、計画や行動が人間から出たならば自滅の道をたどることを示す一方で、神から出たものであれば、それは滅びることはない、と説いた。

教皇は、人間の計画は常に挫折する、と述べつつ、かつての大帝国や独裁体制が一時は世界を支配すると思われるほどの勢いを得ても、最後にはあえなく崩壊した、と話された。

そして、「今日の帝国とされるものも、神が彼らと共におられないならば、崩れることになる、なぜなら人間だけの力は長続きせず、神の力だけが永続するからである」と語られた。

教皇はキリスト教や教会の歴史をも振り返り、多くの罪やつまづきにも関わらずこれらが滅びなかったのは、そこに神がおられるからである、と述べた。

ガマリエルは、ナザレのイエスの弟子たちが詐欺師を信じていたならば、彼らは消え去る運命にあるが、もし神から出たものに従っているならば、彼らから手を引いた方がよいと諭した、と教皇は述べ、「もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」というガマリエルの訓戒は、わたしたちにもこの識別の必要を教えている、と話された。

ガマリエルの落ち着いた先見性のある言葉は、キリスト教的出来事を新しい光で見つめさせ、「実から、その木を見分ける」(参照:マタイ7,16)ための、福音的な物差しを与えてくれるもの、と教皇は語った。

教皇は、わたしたちが今日の時代と隣人の顔の中に、神が通られたしるしを見出しながら、途切れることのない救いの歴史をいつも知ることができるように、と祈られた。

18 9月 2019, 16:27
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[クララ]あわれみがすべての中心にある[2019.9.18.オミリア]

《年間第24水曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは言われた。]「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいるとあなたがたは『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢(たいしょくかん)で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(ルカ福音書7章)

本田哲郎訳:では、この類(たぐ)いの人たちを、何にたとえよう、何に似ているだろうか。子どもたちが広場にしゃがんで、『笛を吹いたが、踊らない。哀歌(あいか)を歌っても、泣きもしない』と、互いに呼びかけ合うのと同じなのだ。沈めの式を行なうヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まないでいると、あなたたちは、『あれは、悪霊に取りつかれている』と言い、『人の子』が来て、食べもし飲みもすると、『見ろ、食い意地のはった酒飲みだ、収税人や道をふみはずした者の仲間だ』と言う。しかし、神の知恵は、それを実践(じっせん)する人たち一人ひとりによって、その解放する力をうらづけられたのである」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「憐みは神の言語」教皇、朝のミサで

2019年9月17日バチカン放送日本語課の記事より。

「憐みは神の言語」教皇、朝のミサで

教皇フランシスコは、朝のミサの説教で、イエスがやもめの息子を生き返らせるエピソードを観想された。

教皇フランシスコは、9月17日、バチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂でミサを捧げられた。

教皇はこの説教で、同日の福音朗読箇所、イエスがやもめの息子を生き返らせる場面(ルカ7,11-17)を取り上げられた。

ナインという町に行ったイエスは、亡くなった一人息子の棺に付き添うやもめと出会った。この母親を見て、憐れに思われたイエスは、棺に手を触れ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言った。死人は起き上がり物を言い始め、イエスはその息子を母親に返された。

教皇は、この母親を見てイエスが大きな「憐み」に捉えられたことに注目。

この母親は大勢の町の人に囲まれていたが、イエスは憐みを通して、一人息子を亡くした母親の孤独を見つめていた、と教皇は指摘。憐みは心のレンズのように、現実を深く見つめ理解させる、と話された。

福音書の中で、イエスはしばしば憐みに捉えられ行動するが、「無関心」が人間の言語であるのに対し、「憐み」は神の言語である、と教皇は語られた。

また、「神は憐みの神であり、その憐みは、ある意味、神の弱みとも言えるが、同時に強さでもある」、「神は憐みに動かされて、御子をわたしたちのもとに遣わされた」と話された。

教皇は、憐れみとは、単に可哀そうに思う感情ではない、と述べ、主がそうされたように、憐みとは、他者の問題に関わり、そこに自分の命をかけること、とも述べられた。

この日の福音朗読箇所で、イエスは一人息子を亡くした母親に、「もう泣かなくともよい」と言われた。

教皇は、優しい癒しにあふれたイエスのこの言葉を味わうと共に、棺に手を触れ、「起きなさい」と言い、息子を母親に返したイエスの、この「返す」という行為について、「正義の行為」である、と強調。

憐みとは、ある種の権利を持つ人たちにそれを返し、利己主義や無関心からわたしたちを救う、「真の正義への道」と説かれた。

17 9月 2019, 14:12
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[クララ]見て、心がゆさぶられ、近づく[2019.9.17.オミリア]

《年間第24火曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[11分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[愛する者よ、]この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別(ふんべつ)があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴(らんぼう)でなく、寛容(かんよう)で、争いを好まず、金銭に執着(しゅうちゃく)せず、自分の家庭をよく治(おさ)め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢(こうまん)になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷(ちゅうしょう)され、悪魔の罠(わな)に陥(おちい)りかねないからです。同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌(にまいじた)を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘(ひ)められた真理を持っている人でなければなりません。この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就(つ)かせなさい。婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。(1テモテ3章)

【福音】[そのとき、]イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺(かん)が担(かつ)ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐(あわ)れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺(かん)に手を触れられると、担(かつ)いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現われた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周(まわ)りの地方一帯に広まった。(ルカ福音書7章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「力ではなく、愛をもって救う神」教皇、日曜正午の集い

2019年9月15日バチカン放送日本語課の記事より。

「力ではなく、愛をもって救う神」教皇、日曜正午の集い

教皇フランシスコは、お告げの祈りを信者と共に唱えられた。

教皇フランシスコは、バチカンで9月15日(日)、正午の祈りを信者と共に唱えられた。

集いの説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、ルカ福音書中の、罪びとに対する神のいつくしみをイエスが「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」のたとえをもって示す場面(ルカ15,1-32)を取り上げられた。

徴税人や罪人たちがイエスの話しを聞こうと近寄るのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(同15,2)と言った。

教皇は、これらの人々の非難の言葉こそ、「イエスは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしてくれる」という、素晴らしい事実を逆に告げるもの、と指摘。

今日もイエスはすべてのミサ、すべての教会で、ご自身を捧げられる主の食卓にわたしたちを喜んで迎えられる、と語られた。

このエピソードで、イエスは、ご自分が罪人たちと食事をすることを非難する人々に対し、3つのたとえを用い、自分は神の御前にふさわしくない思っている人々を、神はいかにいつくしまれるかを示されている。

最初の「見失った羊」のたとえで、イエスは「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(同15,4)と述べている。

教皇は、常識的な考え方から言えば、一匹を犠牲にしても、九十九匹を離さないが、神は決してあきらめることなく、まだご自身の愛の素晴らしさを知らないあなたを心に留められる、と話された。

次の「無くした銀貨」のたとえで、イエスは、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、 その一枚を無くしたとすれば、 ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」(同15,4)と言う。

教皇は、信者らに「あなたは、主が無くさないようにと探し回っている、その一枚の小さな銀貨なのです。あなたは神の御目に大切な、唯一のもの、神の心の中でかけがえのない存在なのです」と語られた。

三つ目の「放蕩息子」のたとえについて、教皇は、放蕩息子を待つ父とは神であり、神は疲れを知らず、わたしたちが御元に帰るのを待ち望み、わたしたちがご自身の愛に気付くのを毎日待っておられる、と話された。

教皇は、わたしたち罪人に対するこの神の無限の愛こそが、福音の中心をなすものと強調。

「放蕩息子」の兄が父を理解できなかったように、神のその愛は拒絶されることもあるが、それは、神を父であるより、主人として考えているからである、と述べた。

そして、「神は、力ではなく、愛をもって救われる」と説かれた。

15 9月 2019, 17:35
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