どのようにして伝わるのか

言葉の初め—真理

人は、その存在の初めには言葉を持っていなかったのではないか。人が人とかかわりを持ち始めたとき、互いにコミュニケーションをとるために人は何をしただろうか。表情、音(声)、態度で「思い」を伝えたのではなかろうか。次第に「音」が「声」になり、「言葉」が生まれてきたのではなかろうか。こうして言葉はコミュニケーションに欠かすことのできない手段となった。

人は言葉を使って自分の思いを表現し、それを聞く人は相手の考えや感情を理解することになる。人と人の間に言葉が存在し、その存在によって人と人のつながりができていく。人は言葉の使い方を学んでいった。

言葉は真実を伝えるものであった。人の「思い」と「言葉」は全く一致していた。人の思いが言葉によって伝わるようになった。言葉を使う人間はますます賢くなった。こうして、人と人とのかかわりは素晴らしいものになっていった。

人は、しかし、うそをつくようになった。「思い」と「言葉」が一致しない「うそ」が存在する。人はごまかすことを覚えた。こうして人と人とのコミュニケーションが乱れていった。こうして「真理」でない言葉が語られるようになった。

言葉の力—いのち

言葉は不思議なものである。一言で人は生きる勇気をもち、一言で人は奈落(ならく)の底まで落ち込むことを体験する。言葉は、人を活かすことも殺すこともできる。

人を生かす言葉が少なくなった。言葉が乱れ、人の心が言葉によって通じなくなった。言葉の乱れは単に表面的なものではなく、それは人の心の乱れを表している。

どうして言葉が乱れるのだろうか。それは言葉より、周りの物を大切にしてきたからではないか。大事なものが見えなくなってしまった。大事なもの、人の心が。言葉よりも物が、心より物が大切になってきた。

独り言であればそれは何を言おうと他人には関係がない。自分の中でその言葉が繰り返されるだけである。しかし、ひとたび言葉が人に対して発せられると、それはその人に大きな影響を与える。真理の言葉は、心から出た言葉は、人を「生かす」。

人として生きる—道

人は一人では生きていけない。人とのかかわり、コミュニケーションの中で生きていく。人はその「道—コミュニケーション」を歩む。

乱れた言葉を使っているうちに、人は真の言葉を失っていく。言葉を失うことは、心の交流がなくなることであり、その結果、人との関係を絶つことになる。こうして人は孤独になり、道を誤ることになる。そして、それは道をなくすことにつながる。

道があって迷い、間違った道を選ぶのはまだよい。それでもまだ道を歩んでいるのだから。しかし、道がなくなってしまったらどうなるのだろう。道に迷って袋小路に迷い込んでしまうより、道のない砂漠の中の一点にいることの方がずっと怖い。そこでは死ぬほどの「孤独」を感じるであろう。

神の子が言葉となった

人は真理の言葉に出合うと、生きる力がわき、孤独から解放され、人としての道(コミュニケーション)を歩むことができる。言葉そのもの、言葉自身が届くことは素晴らしい。

神が「言葉自身」を送って2000年。言葉は「物」ではない。言葉は「生き者」。言葉は「自体」ではなく、言葉「自身」が生きている。その言葉自身が人に届いたのである。こうして、人は真の言葉と出合い、真の人と出会い、真の神と出会うことになった。

イエス・キリストによる救いを記念する紀元2000年を迎えようとしている「今」という時代は、言葉を使う人間にとって、真理の言葉と再会するためのターニングポイントになるのではなかろうか。

「伝えよう—道・真理・いのちのイエスを」。言葉を「伝える」ためには、それがどのようにして「伝わる」かを考えることが優先する。真の言葉のみが人に「伝わる」。真に生きることによってのみ「伝える」ことができる。[カトリック新聞「展望」1997年5月4日号掲載]

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