一粒の麦

K君が死んだ。三十三歳。ダンスのレッスンをしている時に急に倒れ、救急車で病院に運ばれた。意識が次第に無くなり、七日目に逝った。優秀なダンサーだった。さまざまなダンスの形態を統合し、新しいダンスの世界を作り上げようとしていた。彼のその仕事は終わった。しかし、彼は死ぬことによって、人生、すなわち、「人が生きる」という仕事を成し遂げた。

人が人として最後にすること。それは、死ぬということ。人はひとたび死ねば、もはや何もしない。しかし、死ぬことによって後に多くの実を結ぶことができる。人は、そのために生まれ、そのために死ぬ。そして真の命に生き始める。

「一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)

通夜にも、そして葬儀ミサにもたくさんの人が集まった。教会堂に入りきれないほどに。神が、そしてK君が人々を集めた。一人の人が生きながらにして、これだけの多くの人を、神の元に集めることができるだろうか。神はK君の死の悲しみに会った人たちに心をかけてくださった。「人は死んでも生きる」という希望を。それは、わたしたち、生きている一人ひとりに与えられた大きな希望である。一人の人の死、一粒の麦の死、それが、多くの人々に希望を与えた。K君の死は、その死に立ち会った多くの人の心の中で、これから実を結ぶことだろう。永遠に生きるという実を。

神は、人が死によって別れる悲しみをよく知っておられる。それを知った上で、わたしたちに命を与えられた。それは、わたしたちが愛する喜びを知るため。生前、あまり教会に来ていなかったK君。神は彼の「人生」をこのように生かされた。神の想い、神の愛は計り知れない。[カトリック新聞「地の塩」2003年4月27日号掲載]

この記事に引用した新約聖書の「ヨハネによる福音書」12章24節と25節を山浦玄嗣氏は次のように翻訳している。

《小麦の種の一粒は/土に落ちて死なない限り、それはそのまま。だけれども、死ねばどっさり実を結ぶ。命にしがみつく者は/かえって命を落とすのだ。この世で命を棄てさる者は/いつでも明るく活き活きと/生きる力をその身に受ける。》

聖書には、とくにヨハネ福音書には「永遠の命」という言葉がよく使われている。多くの人はこの「永遠の命」を死後のことのように考えている。しかし、「永遠」ということであれば、死んでから始まるということではなく、それは、今から続いているということになる。

つまり「永遠の命」とは、山浦氏が訳しているように「いつでも明るく活き活きと生きる力」を表す。つまり…「時」というのは「今」の続きであり、わたしたちにとっては、実際に、現実に「在る」のは「今」だけということになる。「今」の「次の瞬間」さえ、わたしたちにはわからない。…だから、「今」を《明るく活き活きと生きる》ことが最も大切なことになる。

ただ「生きている」のではなく、「生かされて生きている」のだということを心に留め置くことは、人生(今日)を豊かに生きる「核」になる。

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