沈められる洗礼

イエスは宣教を始めるにあたって洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたが、その意味がわたしにはずっとわからなかった。わたしたちの模範としてイエスも洗礼を受けた、と聞いてきたが、この説明では納得しがたい。洗礼は清めであると考えるかぎり理解できない。なぜなら、イエスは清められる必要はなかったから。イエスは罪を犯さなかったから。イエスは洗礼を受ける必要はなかったのではないか…。

イエスはなぜ洗礼を受けたのだろう。今、わたしたちが普通に考える洗礼とはじつは違っていたのではないか。わたしたちが考える洗礼、それは罪からの清めであり、キリスト教に入信する秘跡(ひせき:言葉としるしを通して実際に恵みを与える)である。あえて儀式といってもいいかもしれない。イエスには清めは必要ではなかったし、ましてやキリスト教に入るために洗礼を受ける必要もなかった。自分の無知をさらけ出すようだが、素直にこの疑問を呈したい。

今、行われている洗礼の多くは額に少量の水を注ぐことによって行われる。水の量は少しだが、その「しるし」によってすべての罪が赦され、清められるとされる。これが教会の教えであり、それに異論を唱えるつもりはない。だが、イエスが受けた洗礼はそのような洗礼だったのだろうか。正直いって、まだまだ疑問が残る。

「洗礼」と訳されているバプテスマというギリシャ語の言葉には、水の中に「身を沈める」という意味がある。イエスにとって水の中に沈められることは「正しいこと」であった。沈められて水の中から上がったそのとき、天が開いた。そして神の霊が彼に降った。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がした。イエスが水の中に沈められることは正しいこと、神のこころに適うことだったのだ。

身を沈めること、これがイエスの示した模範だった。身を沈める。低くなる。そうするとき、神が引き上げてくださり、神の霊に包まれる。これがキリスト者、キリストのものとなった者の生き方。

洗礼を受けるということは単に清められることではない。汚れを洗い流すことだけでもない。それはイエスが洗礼後に生きた生き方に倣うこと。イエスは底辺に這いつくばって生きている人と共に生きた。十字架の死にいたるまで。洗礼はそのように生きることを求める。

洗礼を受けたことで妙な優越感を感じる人がいるようだが、なぜだろうか。優越感など感じるはずはない。それは間違っている。洗礼を受けることは謙虚になること。低みに視点を移すこと。イエスのようにへりくだること。低くされたところで神の霊に包まれて生きること。洗礼のこの意味に気づくなら、教会(エクレシア)はもっと必然的に変わっていくのではないだろうか。

《そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて ”霊” が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》マルコによる福音書1章9節〜11節:新共同訳

《その頃のことでござる。イェシューさまは[草深き]ガリラヤのナザレ村から[燃ゆるが如き志を抱いて]出で立ち、ヨルダン川のヨハネのもとでお水を潜らせてもらいなさった。イェシューさまが水から上がったそのとき、天が割れて、そこから神さまの息がソヨソヨと、まるで鳩の舞うがごとくにやさしく、おのが頭(こうべ)の上へ吹き下ろして来るのを感じなさった。そして、天にお声がござった。「そなたこそ我が愛しき倅(せがれ)。何にもまして気に入っているぞ。」》同上:山浦玄嗣訳

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