[鳥栖]年間第19主日ミサ説教(2018.8.12.)

《年間第19主日》鳥栖教会聖堂で11時から行われたミサの説教[7分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。[エフェソの信徒への手紙4章]

【福音】[そのとき、]ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神のよって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」[ヨハネ福音書6章]

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第19主日ミサ説教(2018.8.12.)

《年間第19主日》小郡教会聖堂で8時30分から行われたミサの説教[8分]を聴くことができます。*今日は幼児洗礼式がありました。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。[エフェソの信徒への手紙4章]

【福音】[そのとき、]ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神のよって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」[ヨハネ福音書6章]

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2018.8.11.〜2018.8.26.)

★★聖母被昇天祭(8月15日:水)のミサは 小郡8:30〜、鳥栖11:00〜です。

★★★鳥栖カトリック幼稚園園庭工事のため8月一杯は佐賀銀行の職員駐車場をご利用ください。幼稚園駐車場はまだ完成していませんが、日曜日7時〜14時までは一部使えます。*駐車の際は警備員に一言お願いします。

★★★司祭館の後ろ側に新しくできる駐車場は9月から使用出来る予定です。

★7月〜9月の日曜日のミサは小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時からになります。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。一度参加してみてください。

 

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[小郡]年間第19主日前晩ミサ説教(2018.8.11.)

《年間第19主日前晩》小郡教会聖堂で19時30分から行われたミサの説教[9分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。[エフェソの信徒への手紙4章]

【福音】[そのとき、]ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神のよって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」[ヨハネ福音書6章]

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]一粒の麦[2018.8.10.オミリア]

《聖ラウレンチオ助祭殉教者》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[皆さん、]惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承(ふしょうぶしょう)ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。(2コリント9章)

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父は、その人を大切にしてくださる。」(ヨハネ福音書12章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「わたしたちの弱さは、神との出会いの場所」教皇、一般謁見で

2018年8月8日バチカン放送日本語課の記事より。

「わたしたちの弱さは、神との出会いの場所」教皇、一般謁見で

教皇フランシスコは、一般謁見の席で、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソードを取り上げ、偶像崇拝について考えられた。

教皇フランシスコは、8月8日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

教皇は謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「十戒」の最初の掟、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20,3)の考察を継続。

この日は特に、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソード(32,1-8)に、偶像崇拝の背景や様相を見つめられた。

教皇は、出エジプト記の中で、民が「金の子牛」の鋳像を造った背景として、モーセが神から掟を授かるために山に登って行ったまま、なかなか降りて来ず、人々は荒れ野で長く待たされていたことを指摘。

荒れ野とは何か、それは不安定と不確かさに支配された場所であり、それは不安で一切の保証がない状態に置かれた人間の生活のイメージであると話された。

このような荒れ野に置かれながら、信頼する指導者、モーセの下山が遅れていたことが、人々の偶像崇拝につながったと教皇は話された。

モーセの消息がわからない人々は、目に見える神を望み、「我々に先立って進む神々を造ってください」と、モーセの兄アロンに言った。

教皇は、民のこのような態度について、「人間の本性は、不安定な状態から逃れるために、自作の宗教を求め、神が目に見えないのならば、自分たちで思い通りの神を創作しようとする」、「こうしたことからも、偶像とは、自ら作り出したものを崇拝しながら、現実の中心に自分自身を置こうとするための、一つの口実である」と話された。

アロンは人々の願いに抗することができず、「金の子牛」の鋳像を造った。

教皇は、「金の子牛」は、古代オリエントの影響下において、豊穣や豊かさ、また活力や強さを意味するだけでなく、何よりも金であることから、繁栄や、成功、権力、富などを象徴するものであったと説明。

すなわち、「金の子牛」とは、自由の幻想を与えるすべての欲望のシンボルであり、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものであったと述べられた。

しかしながら、人々が金の子牛を造らせた一番の原因は、神に信頼し、神の中に安全を求め、神に心の奥底にある真の願いを託すことができなかったことにあると、教皇は強調。

神を第一にしないならば、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでわずかな安心感を得るのみであると話された。

「豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた」(参照:2コリント8,9)イエス・キリストの神を受け入れる時、人は自分の弱さは人生の不幸ではなく、真に強いお方に自分を開くための条件であることを理解する、と述べた教皇は、真の神を唯一の主として受け入れることで、人は自由になり、自分の弱さを認め、心の中の偶像を拒否することができると語られた。

「わたしたちキリスト者は、十字架につけられたキリストを見つめ、その中に真の神の御顔と、愛の栄光の啓示を見出す」、「キリストにおいて、わたしたちの弱さは、もう災いではなく、御父との出会いの場所、天から与えられる新しい力の源となる」と、教皇はこのように説かれた。

08 8月 2018, 17:34
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[クララ]戦争は人間のしわざ[2018.8.9.オミリア]

《年間第18木曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ福音書16章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]あわれみはすべての人に[2018.8.8.オミリア]

《聖ドミニコ司祭》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスはティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ福音書15章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇「命のパンであるイエスとの関係を深めよう」

2018年8月5日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「命のパンであるイエスとの関係を深めよう」

教皇フランシスコは、日曜日のお告げの祈りで、「命のパン」であるイエスと愛と信頼の関係を築くよう説かれた。

教皇フランシスコは、8月5日(日)、正午の祈りを、バチカンを訪れた巡礼者らと共に唱えられた。

集いの説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書中の、イエスがご自分を「命のパン」であると宣言するエピソード(6,24-35)を取り上げられた。

教皇は、先週の日曜日に「イエスが5千人に食べ物を与える奇跡」を考察した際、人々の差し迫った必要に関心を寄せるイエスのいつくしみあふれる姿を観想したことを振り返りつつ、

イエスのパンと魚の奇跡によって空腹を満たした群衆は、再びイエスを追い求めていったが、しかし、ここでイエスが人々に対し、ただご自身を求めるだけでは十分でなく、ご自身について知ることを望まれている点に教皇は注目。

イエスを求め、イエスと出会うことが、単なる物的充足を超越したもの、食べる物や着る物などの日常の心配を超えた、もっと広い世界にわたしたちの人生を開くものであることを、イエスは人々に示そうとされていると述べられた。

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(ヨハネ6,26)と言うことで、イエスは、ご自分が行った奇跡の恩恵にただ与るだけでなく、その意味を理解するよう人々を刺激している、と教皇は話された。

真の「命のパン」(同6, 35)であるイエスは、人々の体だけでなく、魂の飢えを癒すことを望まれるがゆえに、「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働くように」(参照:同6,26)と群衆を招いた。

その永遠の命に至る食べ物とは、イエスが毎日わたしたちに与えられるもの、すなわち御言葉と、御からだ、御血であったと教皇は説かれた。

人々が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問うと、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われた(参照:同 6,28-29)。

教皇は、神を喜ばせるには何をすべきかを知ろうとする群衆に対し、イエスは神の業は「する」ことよりも、神がお遣わしになった者を「信じること」にあると言っている、と強調。

イエスとの愛と信頼の関係においてこそ、わたしたちは福音の香り漂う良い業を兄弟たちのために行うことができるだろうと語られた。

教皇は、パンを心配する必要があるならば、わたしたちの真理と正義と愛に対する飢えを満たすために来られた「命のパン」、イエスとの関係をより深め、イエスにおける信仰をいっそう強めることが大切と説かれた。

05 8月 2018, 17:18
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