[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2019.4.20.〜2019.5.5.)

6月一杯までミサ時間が以下のように変わります。

★鳥栖教会8時30分〜(*4月の子どもとともにささげるミサはなし)

★小郡教会11時〜

本日20日(土)の復活徹夜祭は小郡教会19時、鳥栖教会19時30分開始です。ぜひご参加ください。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

 

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聖金曜日:イエスの受難と死を観想し、十字架を崇敬する儀式、バチカンで

2019年4月18日バチカン放送日本語課の記事より。

聖金曜日:イエスの受難と死を観想し、十字架を崇敬する儀式、バチカンで

「聖金曜日」、教皇フランシスコはバチカンで「主の受難の儀式」をとり行われた。

4月19日、教皇フランシスコは、イエス・キリストの受難と死を記念する「聖金曜日」の儀式をとり行われた。

この日の夕方、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた「主の受難の儀式」では、ことばの典礼に続き、十字架の崇敬と、聖体拝領が行われた。

儀式は、祭壇前の床に伏した教皇の長い沈黙の祈りから始まった。

ことばの典礼では、主の僕の苦難と死についての預言が語られる「イザヤ書」(52,13-53,12)、罪の贖いのためにご自分を捧げ、救いの源となった偉大な大祭司イエスについて述べる「ヘブライ 人への手紙」(4,14-16; 5,7-9)に続き、イエスの受難と死が「ヨハネ福音書」(18,1-19,42)から朗読された。

教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ神父は、説教で、「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負った」と「イザヤ書」(53,3)にある「この人」とは、ナザレのイエスであると述べ、イエスを、世界のすべての疎外された人々、侮べつされ傷つけられた全人類の代表として観想。

全歴史の中で最も偉大な人がわたしたちと同じ仲間であると、わたしたちは民族・宗教を超えて叫ぶことができる、と語った。

しかし、イエスは単に世界の疎外された人々の仲間であるということに留まらない、とカンタラメッサ神父は指摘。

「イエスは十字架につけられ、死に、復活した!イエスにおいて、完全な覆しが起こり、敗者は勝者になり、裁かれた者は裁く者となった」

「イエスは世界の疎外された人々に、尊厳だけではなく、希望を取り戻させた。復活祭は神によって計画され、キリストを通して実現された逆転の祭り、貧しい人や、見捨てられた人々の祭りである」

カンタラメッサ神父はこのように説いた。

説教に続いて、聖金曜日の盛式共同祈願が唱えられた。

十字架の崇敬では、十字架を手に助祭が入場。祭壇に向かいながら、三度歩を止め、そのたびに十字架を顕示し、「世の救い主、キリストがつけられた木の十字架を見つめよ」と、人々を招いた。

本廊脇で教皇は十字架を迎え、十字架上のイエスに接吻された。

この後、十字架は祭壇前にもたらされ、助祭、枢機卿、司教、司祭、修道者、信徒代表らによる崇敬が続いた。

最後に、教皇は祭壇上から十字架を会衆に示された。

聖体拝領式の後、会衆は沈黙のうちに解散した。

19 4月 2019, 19:28
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聖木曜日:教皇、ヴェッレトリ刑務所で「主の晩餐」ミサ

2019年4月18日バチカン放送日本語課の記事より。

聖木曜日:教皇、ヴェッレトリ刑務所で「主の晩餐」ミサ

「聖木曜日」の午後、教皇フランシスコは、ローマ近郊ヴェッレトリの刑務所で、「主の晩餐の夕べのミサ」を司式された。

4月18日、「聖木曜日」の午後より、教会の典礼は、主の受難と死と復活を記念する「過ぎ越しの聖なる三日間」に入った。

「聖木曜日」の「主の晩さんの夕べのミサ」から、「復活の主日」の「晩の祈り」まで続く、この「過ぎ越しの聖なる三日間」は、一年を通じた典礼の頂点をなすものである。

「過ぎ越しの聖なる三日間」の始まりとなる「主の晩餐のミサ」では、受難を前にしたイエス・キリストが、最後の晩さんにおいて、聖体とミサ聖祭、司祭職を制定したことを思い起こす。

また、このミサでは、イエスが最後の晩さんの前に、愛と奉仕の模範として、自ら弟子たちの足を洗ったことにちなんで、「洗足式」が行なわれる。

同日夕方、教皇フランシスコは、ローマ近郊ヴェッレトリの刑務所を訪問。所内のホールで「主の晩餐の夕べのミサ」を司式された。

ヴェッレトリ刑務所は、1991年に開設され、入所者は現在577人。入所者の約60%は、イタリア以外の国籍を持つ。

教皇フランシスコが、「主の晩餐の夕べのミサ」を刑務所でとり行うのは、カサル・デル・マルモ、レビッビア、パリアーノ、レジーナ・チェリの各刑務所に続いて、今回が5回目となる。

ミサの説教で教皇は、原稿を用いずに、直接受刑者らに語りかけられた。

教皇は、最後の晩さんでイエスが弟子たちの足を洗ったことを思い起こしながら、主イエスはすべての権力を持っておられたにも関わらず、当時奴隷が行っていたこの仕事を自ら行うことで、互いに奉仕し合うことを教えられた、と話された。

そして、これは他人を支配するという野心を超えて、奉仕の内に兄弟として生きることを教えている、と語られた。

司教をまず第一の奉仕者とし、一人ひとりが他の人に奉仕しなくてはならない、と述べた教皇は、「仕えさせるのではなく、仕えること」、これがイエスの、そして福音の掟であると強調された。

この後、行われた「洗足式」で、教皇は祭壇の横に座った国籍も様々な12人の受刑者一人ひとりの足を洗われた。

18 4月 2019, 20:06
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[小郡]聖金曜日:主の受難[2019.4.19.]

《聖金曜日:主の受難》小郡教会聖堂で19時30分から行われた典礼における説教[6分]を聴くことができます。

*本日の聖書の言葉をじっくり読んでいただきたい。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】ヨハネによる主イエス・キリストの受難(ヨハネ18章)

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聖香油のミサ:「人に塗油することで、自分も塗油される」教皇、司祭らに

2019年4月18日バチカン放送日本語課の記事より。

聖香油のミサ:「人に塗油することで、自分も塗油される」教皇、司祭らに

教皇フランシスコは、「聖木曜日」の午前、ローマ教区の司祭らと「聖香油のミサ」をとり行われた。

カトリック教会の典礼暦は、復活祭を間近に控えた「聖週間」の歩みの中にある。

復活祭直前の木曜日、「聖木曜日」を迎えた4月18日、午前中の儀式として「聖香油のミサ」が、教皇フランシスコとローマ教区の司祭らによりバチカンで捧げられた。

「聖香油のミサ」は、「聖週間」中の「聖木曜日」に、各教区の司教座聖堂において司教と司祭の共同司式によってとり行われるもので、このミサ中、「司祭叙階時の約束の更新」と、司教による「聖油の祝別」が行われる。

この日、聖ペトロ大聖堂の中央祭壇の周りには、ローマ司教である教皇を中心に、司祭たちの白い祭服が広がった。

ミサの説教で教皇は、福音書の中で貧しい人々や、病者、疎外された人々が、イエスから癒しを施されることで、人間としてのアイデンティティー、尊厳を取り戻したことを思い起こされた。

教皇は、主の癒しによって立ち上がり元気を得た人々、群衆の中で具体的な顔を持ったこれら一人ひとりの存在を、わたしたちも忘れてはならないと、司祭らに呼びかけた。

そして、わたしたちは人に「塗油するために、塗油された」者であり、これらの貧しい人々こそが、聖霊のわたしたちの心への塗油を完全で真なるものとしてくれる、と話された。

「人に塗油することで、自分も新たに塗油される」

「わたしたちは瓶に入った油の供給者ではなく、自分という存在を、また自分の召命と心を分け与えながら、人に油塗る者である」

「わたしたちは、人々の傷や、罪、苦しみに触れ、自ら手を汚しながら油を塗り、人々の信仰や、希望、忠実さ、寛大さに触れ、自分もその香りを受けながら油を塗るのである」

教皇はこのように話された。

この後、「聖なる教会は、主キリストが使徒とわたしたちにご自身の司祭職を伝えられたこの日を今年も記念します。叙階の日に皆さんが司教と聖なる神の民の前で行った約束を新たにすることを望みますか」という教皇の言葉に「はい」と答えながら、司祭らは叙階時の約束を更新した。

聖油の祝別の儀式では、病者用聖油、洗礼志願者用聖油、そして堅信等に用いられる聖香油の、三種の聖油が、助祭たちによって祭壇前に運ばれた。

教皇はアンフォラ(二つの持ち手がついた縦長の壺)に入ったそれぞれの香油を、祈りと共に祝別された。

「聖木曜日」に各教区のカテドラルで祝別されたこれらの聖油は、教区内の教会に分配される。

「聖木曜日」の午後から、教会の典礼は一年間の頂点である「聖なる過ぎ越しの三日間」に入る。

教皇フランシスコは、この日の夕方、ローマ近郊、カステッリ・ロマーニ地方ヴェレットリの刑務所で、「主の晩餐のミサ」を司式された。

18 4月 2019, 17:37
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教皇:「 試練の時に神への信頼をイエスから学ぼう」一般謁見

2019年4月17日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇:「 試練の時に神への信頼をイエスから学ぼう」一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、イエスの御父への全幅の信頼について話された。

教皇フランシスコは、バチカンで4月17日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この謁見で、教皇は、ご受難に入る前のイエスが、最大の試練の中にあって、どれ深く御父なる神に信頼していたかを語り、苦しみの中にあってこそ、神への全幅の信頼の必要なことを強調し、次のように話された。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん明日の聖木曜日からわたしたちは主のご復活、過越を準備する聖なる三日間に入ります。福音史家たちはこの聖主のご受難を、イエスの「栄光の時」として記しています。この間にイエスが御父から受けられる栄光は、この世の栄光とは全く異なります。正反対と言っていいでしょう。

ご受難に入られる直前、イエスはゲツセマニの園で、血の汗を流すほどの極度の苦しみ恐怖を体験します。まじかに控えた、親しい者たちからの裏切り、軽蔑、侮辱、苦しみ、挫折の前で恐れ、そして、苦悩し始めます。

この苦悩の淵にあって、イエスは父なる神にこの上なく甘美な呼びかけ「アッバ」お父さんという言葉で祈ります。「アッバ」という言葉は普段子供たちが自分の父親を親しさを籠めて呼ぶときの言葉です。イエスはこうして子供が困難に会う時、だれよりもまず自分の父親にしがみつくように、わたしたちも試練に出会う時、何よりもまず神なる御父に助けを求め信頼するよう教えてくれます。

なぜなら神に対する祈りの中にこそ、苦しみの中でも前進できる力があるからです。

イエスは皆から見放された時でも、決して一人ぼっちではありませんでした。いかなるときにも、常に御父と一緒でした。

 わたしたちは、かえって自分のゲッサマニ、すなわち試練の時にあって、しばしばイエスとは異なり、イエスのように、わたしたちの本当の唯一の善である御父のみ旨に信頼し委託するよりも、孤独の中に自分一人になることを選んでしまいがちです。

 苦しみの時、試練の時に自分自身の中に閉じこもることは、出口のないトンネルの中に自分自身を閉じ込めるようなものです。,自分自身にしか向かわないこの方向性には何の救いの可能性もありません。

 最大の問題は、苦しみそのものではなく、その苦しみにどのように対処するかが問題なのです。

 自分の中に閉じこもる孤独は、何の出口も開いてはくれません。しかし、他者とのかかわりであり、信頼、委託である祈りはそうではありません。自分自身の中に閉じこもるのではなく、祈ること、すなわち、外に向かい、自分自身を開いていくことによって解決の道も開かれるのです」。

17 4月 2019, 18:04
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[小郡]「主の晩さんの夕べのミサ」説教(2019.4.18.)

《主の晩さんの夕べのミサ》小郡教会聖堂で19時30分から行われたミサの説教[8分]を聴くことができます。

*本日の聖書の言葉をじっくり読んでいただきたい。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。(ヨハネ13章節)

ローマ法王、靴にキス 南スーダンの和平願い

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

 

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[クララ]小さな火が大きな火に[2019.4.17.オミリア]

《受難の水曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾(いく)らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。除酵祭(じょこうさい)の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越(すぎこし)の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢(はち)に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」(マタイ福音書26章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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