[鳥栖]年間第24主日[2019.9.15.]

《年間第24主日》鳥栖教会で11時から行われたミサ典礼における説教[14分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[その日、]主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落(だらく)し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像(ちゅうぞう)を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力(みちから)と強い御手(みて)をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕(しもべ)であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自(みずか)ら誓(ちか)って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。(出エジプト32章)

【第二朗読】[愛する者よ、わたしは、]わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就(つ)かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒瀆(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐(あわ)れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最(さい)たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉(ほま)れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1章)

【福音】[そのとき、]徴税人(ちょうぜいにん)や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担(かつ)いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。  あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」  また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩(ほうとう)の限りを尽くして、財産を無駄遣(むだづか)いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉(ききん)が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇(やと)い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢(う)え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻(せっぷん)した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物(はきもの)を履(は)かせなさい。それから、肥(こ)えた子牛を連れて来て屠(ほふ)りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)られたのです。』兄は怒(おこ)って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠(ほふ)っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカによる福音15章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第24主日[2019.9.15.]

《年間第24主日》小郡教会で8時30分から行われたミサ典礼における説教[13分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[その日、]主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落(だらく)し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像(ちゅうぞう)を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力(みちから)と強い御手(みて)をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕(しもべ)であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自(みずか)ら誓(ちか)って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。(出エジプト32章)

【第二朗読】[愛する者よ、わたしは、]わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就(つ)かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒瀆(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐(あわ)れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最(さい)たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉(ほま)れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1章)

【福音】[そのとき、]徴税人(ちょうぜいにん)や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担(かつ)いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。  あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」  また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩(ほうとう)の限りを尽くして、財産を無駄遣(むだづか)いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉(ききん)が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇(やと)い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢(う)え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻(せっぷん)した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物(はきもの)を履(は)かせなさい。それから、肥(こ)えた子牛を連れて来て屠(ほふ)りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)られたのです。』兄は怒(おこ)って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠(ほふ)っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカによる福音15章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第24主日前晩[2019.9.14.]

《年間第24主日前晩》小郡教会で19時30分から行われたミサ典礼における説教[17分]を聴くことができます。

[小郡1:1分]ここをクリックして聴くことができます。

[小郡2:17分]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[その日、]主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落(だらく)し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像(ちゅうぞう)を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力(みちから)と強い御手(みて)をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕(しもべ)であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自(みずか)ら誓(ちか)って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。(出エジプト32章)

【第二朗読】[愛する者よ、わたしは、]わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就(つ)かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒瀆(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐(あわ)れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最(さい)たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉(ほま)れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1章)

【福音】[そのとき、]徴税人(ちょうぜいにん)や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担(かつ)いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。  あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」  また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩(ほうとう)の限りを尽くして、財産を無駄遣(むだづか)いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉(ききん)が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇(やと)い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢(う)え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻(せっぷん)した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物(はきもの)を履(は)かせなさい。それから、肥(こ)えた子牛を連れて来て屠(ほふ)りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)られたのです。』兄は怒(おこ)って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠(ほふ)っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカによる福音15章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇フランシスコ来日 正式発表[2019.9.13.]

ローマ教皇庁は9月13日午後4時(ローマ時間・同日朝9時)、2019年11月23日(土)から26日(火)まで、教皇フランシスコが来日すると公式に発表しました。ローマ教皇の来日は38年ぶりです。今回の教皇来日のテーマは《すべてのいのちを守るため〜PROTECT ALL LIFE》です。東京、長崎、広島を訪問されます。ミサは長崎[24日(日)13時30分]と東京[25日(月)16時]であります。

カトリック中央協議会特設ページをご覧ください。↓

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2019.9.14.〜2019.9.29.)

9月までの主日ミサ時間は以下のとおりです。前晩(土曜日の夜)の主日ミサは毎週、小郡教会19時30分からです。

小郡教会8時30分〜  鳥栖教会11時〜

9月1日(日)は《被造物を大切にする世界祈願日》でした。今年はこの日から10月4日(金)のアシジの聖フランシスコの記念日まで《被造物の季節》にすると教皇フランシスコは先日発表されました。環境問題は緊急の課題です。具体的に地球を大切にすることを考え、実行に移していきましょう。

教皇フランシスコの来日が正式に発表されました。来日のテーマは《すべてのいのちを守るため:PROTECT ALL LIFE》です。

9月22日(日)の8時30分の小郡教会の主日ミサは幼稚園の運動会のためありません。鳥栖教会の11時のミサは青木悟神父が司式します。前日21日(土)小郡での19時30分の主日前晩のミサはあります。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

 

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教皇フランシスコ、今年11月にタイと日本を訪問

2019年9月13日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇フランシスコ、今年11月にタイと日本を訪問

教皇フランシスコは、今年11月に、タイ王国と日本を公式訪問される。9月13日、バチカンの広報局長が発表した。

教皇フランシスコは、今年11月、タイと日本を公式訪問される。

9月13日、バチカンのマッテオ・ブルーニ広報局長の発表によれば、教皇は2019年11月19日から26日にかけて、タイ王国と日本を司牧訪問される。

教皇は、タイ王国を11月20日から23日まで、同国政府と司教らの招きを受け訪れる。

そして、教皇は、日本を2019年11月23日から26日まで、政府と司教団の招きに応えて訪問。この間、東京、長崎、広島を訪れる。

この訪問についての詳細は、後日発表される。

**********

タイへのローマ教皇の訪問は、1984年5月の聖ヨハネ・パウロ2世の訪問以来、2度目となる。

教皇フランシスコのタイ訪問のモットーは、「キリストの弟子、宣教的弟子」。

タイのカトリック教会は、1669年、サイアム(シャム)代牧区が設立されてから、今年で350年を記念する。

教皇のタイ訪問のロゴマークは、この出来事を思い起こさせるもので、左上に微笑み祝福をおくる教皇フランシスコの姿、右下に福音宣教を象徴する船が配置されている。3つの帆を張ったマストは、三位一体をイメージしている。その船を支えるのは、聖母マリアの手。右下中央の金色に輝く十字架は、タイのすべての信者たちに、福音の証し人となるよう呼びかけている。

**********

一方、日本は、38年ぶりにローマ教皇を迎えることになった。

聖ヨハネ・パウロ2世が、初めて訪日したのは、1981年2月23日から2月26日のこと。この時、東京、広島、長崎を訪れている。

教皇フランシスコのこのたびの訪問は、2019年11月23日(土)から26日(火)までの日程で、聖ヨハネ・パウロ2世の時と同じく、東京、広島、長崎に赴かれる。

教皇の日本訪問のモットーは、「すべてのいのちを守るため」。

訪日のためにデザインされたロゴマークには、このモットーが反映されている。

「PROTECT ALL LIFE」(すべてのいのちを守るため)という英文モットーの中で、「T」の字は十字架となって、下中央に配置されている。その十字架から立ち上がるように燃える、三色の炎のうち、赤い炎は日本の教会の礎である殉教者たちを、青い炎は全人類を子として擁く聖母マリアを、緑の炎は豊かな日本の自然を象徴し、これらが一体となって希望の福音を告げ知らせるという使命を表している。そしてこの炎を囲む、太陽を思わせる赤い輪は、愛を象徴しながら、あらゆるいのちを包み込んでいる。そして、モットーの左には、祝福をおくる教皇フランシスコが青色でデザインされている。

教皇フランシスコは、これまで公の場でたびたび訪日の希望を表明されてきた。

教皇は、2018年9月12日、日本の「天正遣欧使節顕彰会」の関係者との出会いの席で、訪日への希望と、その実現への期待を述べているほか、2019年1月23日、パナマ司牧訪問に向かう特別機の機内で、記者からの質問に対し、今年11月に日本訪問の意向を表されていた。

13 9月 2019, 10:58
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[基山]十字架・いつくしみのしるし[2019.9.14.オミリア]

《十字架称賛》基山教会聖堂で7時から行われたミサのオミリア[3分]を聴くことができます。

*十字架称賛:エルサレムではすでに五世紀から、復活聖堂の献堂を記念する九月十三日の翌日に、キリストの十字架を礼拝する習慣があり、これは次第に東方教会全体に広まった。ローマにこの習慣が取り入れられたのは七世紀になってからである。きょうは、キリスト者の救いと勝利の希望であるキリストの十字架を思い起こす日である。(『毎日の読書』より) 

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[基山]ここをクリックして聴くことができます。

*第一朗読は、民数記またはフィリピの信徒への手紙のどちらかを用いる。

【第一朗読】(民数記21章)[その日、イスラエルの民は旅の]途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

【第一朗読】(フィリピ2章)[イエス・]キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

*本田哲郎訳:あなたたちはこのことを自分のこととして感じ取ってください。それはキリスト・イエスに実現したことです。キリスト・イエスは、神としての在り方がありながら 神と同じ在り方にこだわろうとはせず、自分を空け渡して奉仕人の生き方を取られた。イエスは見たところ他の人たちと同じであった。すなわち、姿はひとりの人にすぎないイエスが、自分を低みに置き、神の従属者として立たれた。それも死を、十字架の死を引き受けるまでに。だからこそ、神はキリストをたたえ上げ、あらゆる名に優る名をお与えになった。こうして、天上のもの、地上のもの、地の下のものがすべて、イエスという方を身に帯びて膝を折り、「イエス・キリストは、『主』(神)である」と口をそろえて告白して、父である神を輝かし出す。

【福音】[そのとき、イエスはニコデモに言われた。]「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3章)

*本田哲郎訳:天からおりてきた「人の子」以外に、天に上ったことのある人はだれもいない。モーセが荒れ野でへびを高くかかげたように、人の子も高くかかげられるのだ。人の子に信頼をもってあゆみを起こす人がみな、永遠のいのちを得るようになるためである。このように神はこの世を大切に思い、ひとり子を差し出した。ひとり子に信頼をもってあゆみを起こす人がみな、滅びることなく、永遠のいのちを得るようになるためである。神が子をこの世につかわしたのは、世を裁くためではなく、子によって世が救われるためである。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]仲間として歩む[2019.9.13.オミリア]

《年間第23金曜日:聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士:金口聖ヨハネ》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

*聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士:三四九年頃、アンチオケに生まれる。高度な教育を受けた後、禁欲生活を始めた。やがて司祭に叙階され、説教によって大きな実りをもたらした。三九七年にコンスタンチノープルの司教に選ばれ、聖職者と信者の生活を改める優れた牧者として活躍した。また、皇帝一族やその他の反対者の憎しみをかい、二度にわたって追放された。追放中の虐待の結果、四〇七年九月十四日にトルコのポントス州のコマネ近郊で死去。キリスト教を解説しキリスト者としての正しい生活を教えるために多くの説教を行い、著作を著した。このことから、「クリゾストモ」すなわち「金の口」と呼ばれている。(『毎日の読書』より) 

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。/わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒瀆(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。(1テモテ1章)

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに]たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行(しゅぎょう)を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカ福音書6章)

*本田哲郎訳:イエスはたとえも用いてかれらに言った。「ものの見えない人が、ものの見えない人を道案内できるか。二人とも穴に落ちてしまうではないか。師の上を行く弟子はいない。しかし、自分自身しっかり鍛錬(たんれん)すれば、だれでも師のようになれるものだ。あなたは、仲間の目の中のわらくずは見えるのに、どうして自分の目の中の丸太に気づかないのか。どうして、仲間に、『さあ、おまえの目のわらくずを取らせてくれ』と言えるのか。自分の目の丸太が見えていないではないか。偽善者よ、まず、自分の目から丸太を取りのぞけ。そうすればはっきり見えて、仲間の目のわらくずを取ってやることもできるのだ」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇、来年5月にグローバルな教育をテーマにイベント開催

2019年9月12日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、来年5月にグローバルな教育をテーマにイベント開催

教皇フランシスコは、2020年5月にグローバルな教育をテーマにしたイベントを行う旨を発表された。

教皇フランシスコは、来年5月にグローバルな教育をテーマにしたイベントを開催する旨を発表された。

教皇が、9月12日、発表したメッセージによれば、この催しは2020年5月14日にバチカンで行われる。

メッセージの中で教皇は、回勅「ラウダート・シ」において、わたしたちの「共通の家」を守るためにすべての人の協力を呼びかけた後、地球の未来の構築と、すべての人の能力への投資の必要をめぐり、対話への招きを新たにしたい、と述べられた。

そして、あらゆる変化には、新しい普遍的連帯とより受容的な社会を成熟させるための教育的歩みが必要と述べている。

教皇が開催を発表したこの国際イベントは、「グローバルな教育的協定を再構築する」をテーマにし、若い世代のための、若者と共にある取り組みを目的としたもので、教育への情熱を新たにするものである。

教皇はこのイベント開催に際し、あらゆるレベル・立場、また研究の分野において、教育のために働く人々の参加を広く呼びかけられた。

12 9月 2019, 11:19
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アフリカ東部3カ国歴訪を報告、教皇一般謁見

2019年9月11日バチカン放送日本語課の記事より。

アフリカ東部3カ国歴訪を報告、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見の席で、アフリカ東部3カ国歴訪について報告された。

教皇フランシスコは、バチカンで9月11日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

教皇は9月4日から一週間の日程で、モザンビーク、マダガスカル、モーリシャスの3国に赴かれ、10日にローマに戻られた。

謁見中の講話で教皇は、前日終えられたばかりのこのアフリカ東部3カ国歴訪について報告を行われた。

教皇は「平和と希望の巡礼者」として訪れた3国に、世の希望であるキリストを示し、すべての民の兄弟愛・自由・正義・平和の力強いパン種であるその福音をもらたすことを望んだ、と述べられた。

最初に訪れたモザンビークでは、長い武力闘争で苦しんだ同国に、希望と平和と和解の種を蒔き、今年の春、2つのサイクロンによって大きな被害を受けた人々に寄り添うことを目的とされた、と教皇は話された。

そして、教皇は同国の要人との会見で、共通善のために共に働くよう励まし、様々な宗教の若者たちとの出会いでは、諦めや不安を乗り越え、国の構築のために働き、社会に友情を広げると共に、先人たちの伝統を大切に守っていくよう勇気づけた、と語られた。

また、聖エジディオ共同体のプロジェクトとして開設された医療センターでは、患者が最も大切にされ、異なる宗教の人々が一致して兄弟のように働いている様子を目にすることができた、と振り返られた。

モザンビーク訪問の頂点となったミサでは、雨にも関わらず、皆が幸福を感じていた、と教皇は述べ、そこには、暴力を鎮め、兄弟愛を生む、「敵を愛しなさい」(ルカ6,27)というイエスの言葉が響いた、と語られた。

次に訪れたマダガスカルは、美しい自然と豊かな天然資源を持つ一方で、多くの貧困が存在する国であるが、教皇はここで、同国民が伝統的な連帯の精神をもって、対立を乗り越え、環境と社会正義が尊重される未来を構築するよう招いた、と話された。

教皇は、マダガスカルで訪問された、アンタナナリボ郊外の「友情の町」について、宣教師ペドロ・オペカ神父が始めた共同体で、福音の精神に基づいて、労働、尊厳、貧しい人への援助、子どもの教育などのテーマを一致させたものである、と紹介。教皇は、隣接の採石場で、労働者のための祈りを唱えた、と述べられた。

マダガスカルで、教皇は同国の観想修道会の修道女たちと昼の祈りをとり行ったが、教皇は「信仰と祈りなしでは、人間にふさわしい町を築くことはできない」と、祈りの大切さを指摘された。

マダガスカル訪問の後半の行事、アンタナナリボ郊外で行われた日曜日のミサと、それに先立つ、若者たちとの祈りの前夜祭での、非常に多くの参加者を教皇は思い起こされた。

最後に訪問したモーリシャスは、観光で知られると同時に、多様な民族と文化が統合された国であり、実際、同諸島には前世紀より、インドからをはじめ、様々な民族が居住している、と教皇は説明。

同国では、諸宗教間の対話と友好が自然な形で存在しており、たとえば、教皇が同国の司教館で見た美しい花束は、イスラム教の指導者から贈られたものであった、と話された。

モーリシャスでのミサは、同国の「一致の使徒」、福者ジャック・デジレ・ラヴァル神父を追憶するものであったが、ここで教皇はイエスの「真福八端」をキリスト者の身分証、利己主義や差別に対する特効薬として示した、と語られた。

さらに、要人らとの会見で、教皇は共通の計画実現のために多様性を調和させる同国の努力を評価され、これからもより受容力のある社会と民主主義の発展に尽くすよう励まされた、と述べられた。

 

教皇は、この訪問で蒔かれた種が、モザンビーク、マダガスカル、モーリシャスに豊かな実をもたらすよう祈られた。

11 9月 2019, 17:38
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